生産が移管したうち、旧川崎工場からは生産部隊だけがきて、設計部隊は栃木県・小山へいっていた。車で約40分の距離だが、この「別居」が気になっていた。前にいた石川県の粟津工場でも、開発は大阪、生産は粟津という製品があり、大阪から「開発は終わった。万全だ」と言われて生産を始めて、失敗したことがある。

納品したお客のところで何か問題が出たら、すぐに設計と生産が一緒にみて対応策を考えないと、いい知恵が出ないし、即応できない。同じことが、真岡でも起きていた。「設計部隊を呼べ」と言っても、小山への電話がつながらないことがある。「もう許せん」と思い、社長に訴えて、同居を実現した。品質と納期と、コストを守るため、開発と生産を並列して進める「サイマル方式」が、全国の拠点に広がっていく。

「務本。本立而道生」(本を務む。本立ちて道生ず)――何事も、大本をつかむことが大切で、根本的なことをちゃんとしていれば、自然にとるべき方法はみえてくる、との意味だ。『論語』にある言葉で、うわべのことや枝葉末節にとらわれず、物事の根本を成すものをつかみ取る努力を求めている。目標を高く掲げ、基本的なところから説いて進むべき道へ導く大橋流は、この教えと重なる。

1954年3月、千葉県市川市で生まれ、数日後に東京・緑が丘の両親宅へ戻る。両親と兄の4人家族。小学校高学年のとき、社会科の授業で「マレーシア紛争」がテーマとなり、生徒が自分たちで調べることになった。そのとき、同級生と3人で外務省に話を聞きにいったことなどがきっかけとなり、世界の動きに関心を強めて、「将来の夢は、国連の事務総長」と言うようになる。

中学、高校は麻布学園。数学が好きで、東大の理科I類へ進み、「いちばん面白い」と思った数理工学を専攻。自然や社会の様々な事象を数字を使ってときほどき、応用へ発展させる学科だ。ただ、就職では「リアルなものづくり」を志向し、コマツが発表した世界最大のブルドーザーをみて「どうせつくるなら大きなものがいい」と決めた。海外で仕事をしたかったので、留学制度があったことも選んだ理由だった。