送信ボタンを押す前にひと呼吸

一夜すぎて朝、手紙を出すときには、自分の気持ちもだいぶ落ち着いている。昨晩はまったく許せないと思ったのだが、あんなに腹を立てるほどのことだったのか。余計なことも書きすぎたなあ、少し語調もおとなしくした方がいいかと考え直して、封を切って読みかえしてみる。ずいぶんひどいことを書いている、と驚くこともあるだろう。これは書き直した方がいいな、と思ったり、場合によっては、投函をやめたりする。そのまま学校に行って、当の本人に会えば、もう気持ちも落ち着いていて、相手から謝られたりもして、結局、何事もなかったように友情は持続する、といった展開にもなる。

手紙を書いても、すぐ投函できないという時間的、地理的な制約が自分の行動をふりかえる機会を与えたわけである。これがメールの場合なら、思いのたけをぶちまけて、そのまま送信ボタンを押せば、夜中であろうと、瞬時に相手に届いてしまう。「ちょっと言い過ぎた」と思っても、もう遅い。メールを見た相手は激しい文面に驚き、さらにエスカレートしたメールが返ってくるかもしれない。こうしてメール合戦は「炎上」、もはや友情の修復は不可能である。

サイバー空間がブレーキとなる緩衝地帯、緩衝時間を持たないことが、小さないさかいを生じさせ、それを大きく増幅してしまう。

だからこそ、事務的なメールはともかく(ビジネスメールの便利さは、多くのひとが日々感じていることだろう。かつて海外出張した時に、本社との連絡で時差に泣かされた経験をもつ年配者は多いと思う)、そこに感情的な思いが含まれているメールは、送信ボタンを押す前にひと呼吸も、ふた呼吸も置くという緩衝地帯を設ける人間的な知恵が必要である。サイバーリテラシー・プリンシプル(14)は<感情のからむメールは夜中に送らない>である。

これは何もメールに限ったことではない。先にふれた掲示板の書き込みも同じである。無用に他人を攻撃する必要はないのではないか、文章をもう少し穏やかにできないか、自分が書いた文章を友人が見たら何というだろうか、そういう心の余裕があれば、事態はだいぶ変わるだろう。

昨今はインターネット上の情報の「忘れられる権利」をめぐる議論が盛んだが、検索サイトのグーグルに削除権限を与えることには、表現の自由との関連で難点もある。過去の不適切な情報の削除は考慮されるべきだが、一方で、不当な情報を書かない、拡散しないという心構えを多くの人が持つこともまた大事だと思われる(サイバー閑話「難題は削除権限を私企業に与える是非」<http://www.cyber-literacy.com/blog/archives/2014/11/201411.html#more>参照)。

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