「書く」ことが変化してきた
サイバーリテラシー・プリンシプル(17)<ときにデジタルを離れて道草をする>というのは、要はアナログの良さを見直そうという提案である。3つのエピソードを紹介しよう。
2013年秋、江戸東京博物館の「明治のこころ モースが見た庶民のくらし」展を見に行った。明治期に日本に滞在した考古学者のエドワード・モースが蒐集した320点の生活道具や陶器を中心に、庶民を撮った写真やモース自身の日記、スケッチなどが展示され、筆と硯のコーナーに「非常に腹を立てて、すさまじい剣幕で手紙を書こうとする人でも、十分冷静になるだけの時間がある」という『日本その日その日』の文章が引用されていた。
ものを書く道具は、筆からペンへ、そしてキーボードへと変化してきたけれど、紙からデジタルへの移行はまさに革命的だった。『ASAHIパソコン』を創刊した1990年前後はその過渡期で、ワープロ専用機がもてはやされていた。「(いま買うなら)ワープロか、パソコンか」、「ワープロは文体を変えるか」といった特集をしたのが懐かしく思い出される。
人びとがふつうにメールを書くようになって、これまでの「書く」ことへの敷居は著しく低くなったけれど、文体も大きく変わった。その典型が2007年にブームになったケータイ小説である。人々は「話す」ように「書く」ようになった。そしてツイッターやラインによる短文メッセージが飛び交うようになり、さらに書く行為の性格も文体も変わってきた。
かつては「文は人なり」とも言われ、私的な手紙にしろ、公開用の原稿にしろ、何度も推敲したものである。書きながらゆっくり考える、という習慣が希薄になったのは間違いない。