「スレイブ(奴隷)中村」という仇名

中村の論文を高く評価したのは、米国の学会だった。この年の秋、イリノイ大学のハビス・モルシュ教授の名で一通の招待状が届いた。12月、米国のニューオリンズで初めて窒化ガリウムに関する国際会議を開くが、ここで講演をしてほしいという内容である。出席したいと上司に願い出るが、許可が出ない。社長に直接手紙を書いてくれと返事を出す。トップへの手紙が届き、とうとう出席が許可になった。

青いホタルを皆に見せながら、20分ほどの講演を終えると、万雷の拍手。握手攻めである。これをきっかけに中村は国際的な学会にたびたび出席するようになる。中村は国内外の専門家を唖然とさせるほどのテンポで矢継ぎ早に研究成果を発表していった。96年には、物理学の優れた研究に与えられる「仁科記念賞」と工学分野で大きな成果を収めた者に与えられる「大河内記念賞」を、98年にエレクトロニクスの世界最大の研究学会IEEEによるジャック・A・モートン賞を名城大学の赤崎勇教授(半導体専攻)と連名で、それぞれ受賞する。

あちこちの学会に招かれ、交遊範囲も広がるにつれ、思わぬことが起きた。米国の学者に「こんな発明をしたのだから、億万長者になっただろう?」と聞かれた。日本におけるサラリーマン研究者の実情を説明すると、変な仇名を付けられてしまったのだ。「スレイブ(奴隷)・中村」である。小学生以来、「修ちゃん」と呼ばれはしたが、仇名を付けられたことはない。

米国の大学、とりわけ工学系では、新しい研究成果を学会で発表すれば、たちまちベンチャー・キャピタリストから声がかかり、日本円で10数億、時には数10億単位の金が集まる。教え子を社長にして、教授は顧問となり株を持つ。起業が成功すれば上場、あるいは大企業に売却する。巨万の富を手にするだけではなく、自分の開発した研究成果が実社会に製品として生きていく喜びを味わう。

自分はあまりにも世間知らずだった。たしかにこれでは奴隷(スレイブ)だ。索漠たる思いとともに、会社を辞めようという気持ちが徐々に固まっていく。スレイブは、自由な身の市民(シティズン)へと脱皮を願うようになった。「会社に対する愛着とか忠誠心はないのですか」と聞いてみる。中村はあっけらかんとして答えた。

「全くないですね。いまはもう、よくもあんなところに20年間もいたなという感じです」