野心を解放し、「昇華」させる
彼の会社が実現する技術革新が、世界の様々な問題を解決し多大な“貢献”をもたらすような日もそう遠くないはずです。でもそれは、彼を長年突き動かしてきた、圧倒的な野心とコンプレックスにこそ人間の可能性と正しさを感じるからです。もちろん、ただそれをウジウジと垂れ流しているだけでは醜く愚かなまでです。
しかし、彼のような人物がその野心やコンプレックスを社会との接点を通じて圧倒的な執念と努力で“昇華”させようとするとき、あらゆる難題や困難も突破するエネルギーが生みだされ、さまざまな人が魅了され、巻き込まれていく。ここまでくれば当然、周囲への感謝や使命感も自ずと生まれる。その結果として、社会が変わったり、世界が「救われた」というような新しい何かが産み出されたりもするのだと思います。そしてここまできて初めて、多くのエンドユーザーに利益や幸せをもたらすことができるわけです。
ただ少し残念なことに、世間にはそのように伝わっていません。彼自身も口にしていました。「社会が勝手に求めてつくりあげる、けがれなき“像”がある。それをコントロールすることはとても難しい」。もちろん、自分の野心やエゴにただとり憑かれ、それだけに終始してしまうことは罪かもしれません。でも、それと正直に向き合い、そこから始めていくということは、人間が社会に何かをもたらすという行為において欠かせないはずです。
最初から「自分」という存在をおざなりにして、変える社会も救う世界もありません。そこには何もリアリティがないし、誰かのイメージを変えて期待させるほどのエネルギーもない。自分のエゴを騙して装飾した理念や志など、次々と重なる困難や苦難を乗り越えたりはできないものだと思います。そして、それでは結局誰も幸せにならない。
社会が成熟し、次の「新しい何か」を求められる僕たち。大小にかかわらず、それを形にしていくためには、社会や世界という前に、自分というもっとも身近で複雑な存在、そのエゴイズムと向き合っていく覚悟が必要だと思います。そしてそれは、とても辛くてエネルギーがいることです。自分自身にあふれる野心や、根深くまとわりつく様々なコンプレックスを解放し、それを“昇華”させようともがくこと。それが、僕たちにとって最も人間らしく文化的な生き方なのではないでしょうか。
(2014.7.30追記: 著者の曖昧な記憶に基づく記述が入っておりましたため、本文の一部を修正いたしました。)