彼の抱くホンダという会社は「体制に楯突いてでも、正義を振りかざしている若いあんちゃんみたいな存在」だった。
例えば――と彼は言う。
かつて通商産業省が「特定産業振興臨時措置法案」を国会に提出し、国際競争力という名のもとに自動車産業の再編と新規参入の制限を計画したことがあった。その際、本田宗一郎は国の政策に強硬に反発し、四輪車の開発とF1への参入を急いだ――。
「そのチャレンジ精神、アウトスタンディングのかっこよさ。そこに僕はすごく魅力を感じていたんです」
ならば、車のデザインもその「ホンダらしい世界観」を、社会に対して表現するものであってほしかった。しかし入社から時間が経てば経つほど、周囲から「いい会社ですね」と言われても、「かっこいい会社ですね」「面白い会社ですね」と言われる機会は減っていった。それは彼には堪たまらないことで、ことあるごとに上司とぶつかってきた理由でもあった。
「僕はこれまで上司の言うことを聞かないデザイナーのナンバーワンだったと思います。とにかく上司と喧嘩ばっかりしてきましたから」
よって伊東たちに「ホンダの強い顔を持ちたい」と言われたとき、南は「そんな自分にデザインを任せるということは、すべてを壊せということだろう」と察した。ホンダが好きで、ホンダのデザイン室で働いてきた。いま抱いている歯がゆさを全てぶつければ、世の中が求める“ホンダらしさ”を自分が表現できるという自信はあった。
「僕の方からは一つだけ条件があります」
彼は伊東たちに向けて言った。
「周りにいろいろと口を出されて、デザインを変えるのは嫌です。デザイナーがやりたいことを守ってくれるのであれば、やります」
一回り年下の南がこう話した時、野中は我が意を得たような思いだったはずだ。
「グローバルコンパクトシリーズ」の開発方針が決まった際、野中は伊東に対して次のように語っていたからだ。
「研究所がつくるのだから、研究所が仕切る。その結果、どんなに尖ったやつが出てきても、尖ったまま出してほしい」
2人は条件を受け入れ、デザインについての判断は全て四輪事業本部の野中と社長の伊東の2人だけで行うことにした。