風呂は週1のシベリア赴任時代
思えばこの会社にある挑戦的な雰囲気は、かつての日本の企業にあったものと似ているように私は感じるんです。
私は会津の工業高校を卒業後、日産ディーゼルというトラックを製造する会社に就職しました。いわゆる「金の卵」の世代で、採用面接は学校に会社の担当者が来て行なわれました。企業が一気に人を増やしている時期でしたから、会社は近くの割烹旅館を買い取って寮にしていてね。「洗面道具だけ持ってきなさい」と言われて、ホントに馬鹿正直に洗面器と洗面道具、タオル一本だけを持って上京したものでした。
生産技術部に配属された私にとって転機になったのは、入社してしばらく経った頃、シベリアでの木材運搬車のコンペを担当したことでした。日本からは日産ディーゼルのほかにいすゞ、日野、三菱。ヨーロッパからもベンツなどが参加し、それぞれ丸太を運ぶ大型トラクターを持ち込んで売り込む。ソ連の林業所がシベリアを開発するにあたって大量のトラクターを必要としていたんですね。
当時は20代半ば。まだ独身でしたから、何も怖いものがなかったんだなと自分でも思います。シベリアはマイナス45度の世界で、1週間に1度しか風呂に入れない。空港には社長が見送りに来て、二度と帰れないんじゃないかという覚悟で現地に向かったのを覚えています。
結果的にその競争にわれわれが勝ったんです。勝因は日産ディーゼルがすでにシベリアに納入していたコマツと組み、ブルドーザーのエンジンをトラクターに乗せたことでした。エンジンが共通の方が使い勝手がいいですからね。そして、トラクターを売れば売ったで、その後のアフターケアが必要になってくるので、シベリアでの仕事はその後も続くことになりました。
以来、私はその経験から海外での仕事を任されることが多くなり、部の枠を超えて各地で工場の建設から、商品企画、販売、製品のその後の管理までを様々な国で担当するようになっていきました。