暴れた父の面影が浮かぶ
千代は庭の冷たい土の上に、いつまでも座っていた。
「人には信じられないことかも知れないが、私は泣かなかった。」
閉まった雨戸を、もう一度叩こうともしなかった。やがて起き上がると、両手で着物の土を払い、実家へ向かってゆっくり歩き出した。
引き下がったわけを、千代は父に結びつけている。亡くなった父の命令には、どんなに不条理でも従ってきた。その習慣がまだ残っていて、男が別れを望むなら従うほかないと思えたという。金物店で包丁を帯に挟んだ瞬間に思い出したのも、かつて出刃包丁を振り回して叫んだ父の姿だった。
80代半ばでこの自伝を書いた千代は、同じように失恋した人に向けて、こう言い添えている。
「私のした通りにして下さい。決して、もう一度、雨戸を叩いたりして、男を呼んだりはしないで下さい」
母についた「真っ赤な嘘」
実家に着いたのは、朝だった。弟妹たちが学校へ出かける時刻で、あけ放した障子の向こうから、にぎやかな声がする。「お母、いま、朝鮮から戻って来たでよ」。そう声をかけたとき、初めて涙があふれたという。
だが畳に座るなり、千代は別の話を始める。『朝鮮及満洲』を、岩国のあたりでも広められないかと思って帰ってきたというのだ。男のことで戻ったと言えば、母は心配する。母の喜びそうなことを言わなければと、帰る道々考えてきた言い繕いだった。
「これは真っ赫な嘘であったが、また、ほんとうでもあった。」
嘘だったのは、帰ってきた理由のほうである。雑誌の仕事そのものは、作り話ではなかった。評伝によれば、千代は京城にいたころから雑誌の販売に興味を持ち、戸別訪問で予約を取る仕事もしていた。社長に手紙を出して、購読の申込書を送ってもらえばいい。申込書に購読料を添えて京城へ送れば、その3割が手数料として手元に届く。
母が喜ぶと思うと、仕事の準備にも張り切った。そんな自分を、千代はこう書いている。
「この私のどこにも、朝鮮から男を追いかけて帰って来て、帯の間に出刃庖丁を隠し持って、庭の土の上に突き飛ばされた娘、と言う印象のなかったのは、不思議であった。」

