直接手紙を送ることはNG

天正13年(1585)6月16日、秀長は生涯に最初にして最後となるたった一人の総大将として、当時の居城だった和歌山城(和歌山市)を発ち、長宗我部元親を降伏させるための四国征伐に向かった。だが、四国では長宗我部方の木津城(徳島県鳴門市)の攻略に手こずり、業を煮やした秀吉は、7月3日にも出陣すると言い出した。

そこで秀長は7月2日、秀吉の近臣の細井方成に宛てて、秀吉に取り次いでもらいたい用件を書いた書状を送った。内容は、秀長は四国征伐の総大将を仰せつかり、まだ長宗我部方を攻略しきれていないなか、秀吉が出陣してしまうと秀長が敵に侮られることなり、秀長にとっても恥辱なので、出陣は取りやめてほしい、というものだった。

それを受け、秀吉は実際、出陣を取りやめたのだが、そのことよりも気になるのは、手紙のあて先が秀吉ではなく、秀吉の近臣、それもおそらくは大名でさえない奉行だという点である。

弟の秀長であっても、あくまでも立場は秀吉の家臣の一人にすぎなかった。だから、主人である秀吉に直接手紙を送ることは許されず、緊急を要する用事であっても、このように近臣を通じて秀吉に取り次いでもらう形式を取らなければならなかった。「豊臣兄弟!」での兄弟の様子にくらべれば、かなり窮屈な関係だったことになる。

秀吉の逆鱗に触れた大事件

天正16年(1588)12月に起きた吉川平助の事件も、秀吉と秀長の関係を読み解くうえで示唆深い。紀伊湊(和歌山市)の代官や山奉行を務めた吉川平助は、「豊臣兄弟!」では松岡広大が演じ、このところたびたび、材木をあつかう人物として登場している。

この平助はもともと秀吉の家臣で、ある時期に秀長の家臣へと転属していた。秀長は天正13年(1585)閏8月に大和(奈良県)に入国して以来、城の改修はもちろん、国内の寺社の修築を進めるなどしたので、多くの材木が必要とされた。それ以外にも、秀吉が京都で大仏の造立をはじめるなど、材木需要は旺盛だった。

そんななか、材木の供給地だった熊野(三重県熊野市)から伐り出され、紀伊湊に集められた木材を一手に管理していたのが吉川平助だった。

参詣道沿いの「熊野古道」と書かれた木看板
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平助は秀吉から熊野の木を売るように命じられると、約2万本を伐採して大坂で販売した。だが、その際、高めに売って上前を撥ね、自分の懐に入れていた。この「不正売買」が発覚して、秀吉の逆鱗に触れるのである。