島津義弘がわざわざ国元に手紙を書いた

吉川平助はただちに捕縛され、12月5日に西大寺(奈良市)で処刑され、その首は京都市中にさらされた。秀吉の命令で動いている面があったにせよ、仮にも秀長の家臣であったから、この事件によって秀長は大いに面目を失ったようだ。

興福寺の塔頭、多聞院の英俊が書いた『多聞院日記』には、「大納言殿天下の面目失儀也(大納言の秀長殿は天下の面目を失ったのだった)」と書かれている。

また、英俊は1月5日付の日記でもこの事件に触れ、秀長が年始のあいさつをするために大坂城を訪れたが、秀吉への謁見を許されず、このためまだ大坂に留まっていて郡山に帰ってきていない、という旨を書いている。奈良にいる英俊は、秀長が秀吉に謁見したかどうか見ていたわけではなく、記述を疑う余地はある。だが、少なくとも、秀吉の怒りの大きさが奈良に伝わっていたことはわかる。

このとき平助が遺した金子700枚が秀吉に献上され、それで秀吉が多少は気を取り戻したのか、平助の妻や子女には処分がおよばずに済んだ。とはいえ、在京していた薩摩(鹿児島県西部)の島津義弘が国元に衝撃を書き送っているほど、事件は周囲に強いインパクトをあたえたようだ。

島津義弘公騎馬像(伊集院駅)
島津義弘公騎馬像(伊集院駅)(写真=日置市役所総務課秘書広報係/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

「独断専行するなら成敗する」

しかも、前述したように、平助に熊野の木を売るように命じたのは、秀長ではなく秀吉だった。それでも管理責任を問われるのは、直接の主従関係にあった秀長だったのだ。

この事件からあらためてわかるのは、秀吉の弟の秀長であっても、弟である前に秀吉の家臣であることに変わりなく、わずかな失敗も見逃されなかった、ということである。

少しさかのぼると、天正14年(1586)7月から同15年(1587)5月かけて行われた九州平定戦の戦後処理にも、秀吉が秀長を叱責したあとがある。秀長の軍勢は天正15年4月の高城(宮崎県木城町)の攻略戦で、島津軍を完全に不利な立場に追い込み、島津義久に降伏を勧告。4月21日には家老が秀長のもとに赴き、降伏する意を伝えている。

だが、秀吉は事前に徹底的に攻めるように命じており、それを無視して勝手に降伏を受け入れた秀長を、強く叱責したのである。5月13日付で秀吉が秀長に送った書状には、今後も秀吉の了承なしに独断専行するなら、成敗するので念頭に置くように、とまで書かれている。