計算するだけなら安価な電卓で十分

とはいえ、使うかどうかもわからない機能をすべて詰め込めばいいわけではない。成熟した商品である電卓は、計算するだけなら安価なもので十分に役割を果たす。だからこそ「なぜ、この電卓を選ぶのか」という理由が重要になる。

「単に機能的な価値だけでは、お客さまには選んでいただけません。使うたびに気持ちがいいとか、所有してうれしいとか、『これを使いたい、持ちたい』と思っていただける価値が大事なのです」

佐藤氏は、それを「感性に訴える価値」と表現する。

単に数値で比較できる性能だけではなく、手に取った瞬間の質感や、キーを押したときの感触、机の上に置いたときの存在感まで含めて、一つの商品としての魅力を高める。その積み重ねが、成熟市場では差別化につながるという考えだ。

「『電卓って、こんな世界もあるんだ』『今の電卓って、こんなに進化しているんだ』――。まずはそれを知ってほしかった」と佐藤事業部長。

漆電卓の商品企画を担当した野村美月さん
筆者撮影
漆電卓の商品企画を担当した野村美月さん
手にしっくりとなじむ質感も特徴の一つだ
筆者撮影
手にしっくりとなじむ質感も特徴の一つだ

一方、商品企画を担当した野村美月さんは、漆という選択は「日本の伝統工芸だから」という単純な理由ではなかったと振り返る。

「最初から漆ありきではありませんでした」。電卓に新しい価値を与えられる素材はないかと、さまざまな選択肢がテーブルに載った。

漆が選ばれたのは、量産品にはない魅力があるからだ。塗り重ねるごとに深みを増す艶。光の当たり方によって表情を変える質感。そして、一つとして同じものができない手仕事ならではの個性。工業製品として均一であることを追求してきた電卓とは、まったく異なる価値観だった。

「工業製品」に「手仕事」を持ち込んだ

紹介を受けて訪ねたのは、福井県鯖江市の越前漆器メーカー「山久漆工」。そこで漆塗りを担ったのが、塗師の梅田隆次さんだった。しかし、職人との出会いが、そのまま商品化につながったわけではない。

器や重箱などとは違い、漆を施すのは、精密加工されたアルミニウム合金製のボディだ。アルミニウムは漆が定着しにくく、塗るにはひと工夫が必要だった。また、キー穴が数多く開いた形状のため、従来の漆器用の固定具ではうまく支えられず、漆を均一に塗ることも難しかったという。

「どうすれば漆をきれいに塗り、均一に仕上げられるのか。そこから職人さんと一緒に考えることになりました」と野村さんは話す。

漆塗りのため、電卓専用の治具も製作した
写真提供=カシオ計算機
漆塗りのため、電卓専用の治具も製作した
漆電卓の製作を担った漆職人・梅田隆次さん
写真提供=カシオ計算機
漆電卓の製作を担った漆職人・梅田隆次さん
一つひとつ手に取り、仕上がりを丁寧に確認する
写真提供=カシオ計算機
一つひとつ手に取り、仕上がりを丁寧に確認する

結局、電卓専用の治具まで一から製作した。まずウレタン塗装を施して乾燥させ、その上から漆を塗って再び乾燥させる。漆は温度や湿度によって状態が変わるため、同じ工程を踏んでも毎回まったく同じ仕上がりになるとは限らない。

大量生産を前提とした工業製品とは、対極にある世界だった。完成した電卓は、一台ごとに微妙に表情が違う。工業製品でありながら、工芸品でもある。均一であることを目指してきた電卓に「違い」そのものを価値として取り込んだ。