わずか20歳で病死した娘
看護教育所での座学を終えた心は、いよいよ実習に入ろうかという段になって風邪のような症状を訴えた。診断したところ、結核が判明。和はつきっきりで看病にあたったというが、わずか4カ月後に20歳でこの世を去った。
自分と同じ看護師の道を歩もうとしていた娘を、知識と技術のすべてを注ぎながらも救えなかったことは、和にとって重い意味を持った。和は後年「心の話題は極力避けていた」とも伝えられている。職業柄、多くの人を看取ってきた経験があっても、我が子の死を語り得なかった和。その心情を思うと、居たたまれない思いがする。
葬儀は和の恩師である植村正久の一番町教会で執り行われ、死化粧を施された心の顔を和が呆然と見つめていたとする記述もある。
「母性の欠如」の問題だったのか
明治期、社会的に成功した女性の私生活、とりわけ結婚の失敗や子の死といった「家庭のつまづき」は、公的な記録に残りにくい性質のものだった。男性の社会的成功者であれば、家庭を顧みなかったことはさして問題視されない。しかし女性の場合、同じ選択は「母性の欠如」として語られがちであり、和自身、あるいは周囲の人々が、あえてそれを記録に残さなかったと想像できるのである。
大関和という人物の評伝を組み立てるとき、私たちはどうしても「輝かしい業績」の側から光を当てがちになる。しかし、彼女がついに得られなかった二度目の結婚、そして胸の内にしまい込んだ娘への悔恨は、彼女の人生の輪郭をむしろ浮かび上がらせる。史料の空白そのものが、当時の女性が置かれていた構造を映す鏡になっている。
・参考文献
佐波亘編『植村正久と其の時代』第5巻、教文館、1937年
木下尚江『木下尚江著作集』第15巻、明治文献、1973年
日下部桂『松本平文学漫歩続』 信濃往来社、1959年
亀山美知子『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』ドメス出版、1992年
田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』中央公論新社、2023年
青山誠『大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』角川文庫、2026年
相馬黒光『穂高高原』女性時代社、1944年
高橋政子「大関和のこと(補遺)」『看護教育』22(9)(252)、医学書院、1981年9月
『看護実践の科学』3(6)看護の科学社、1978年6月
『婦人新報』第35号、日本キリスト教婦人矯風会、1900年3月25日


