和の激しさを証明する逸話
直情的といえば、和の激しさをよく表す逸話がある。1904(明治37)年5月8日、日比谷公園で日露戦争の市民による祝捷会が開かれた際、提灯行列の波が馬場先門付近で将棋倒しとなった。和はただちに駆けつけると、橋の欄干から群衆のなかへ自ら飛び込み、死傷者を次々と担ぎ出しては救助にあたり、警官に向かって「貴官の剣を貸し給え」と絶叫したという。後先考えずに救助にまい進する姿は看護師の鑑だが、一歩間違えば和の命もなかっただろう。
職業人として次々と道を切り拓いた一方、恋愛や結婚においてはどこかレールを外れ、望む結末にたどり着けない和。看護師として奔走する社会的な顔と、涙ながらに結婚を願う個人的な顔とは落差があるようにみえて、和のなかでは繋がっているのである。
二度目の再婚話については評伝などでも省略されていることが多い。世に出て華々しく活躍する和に対する世間の目を考えれば、あえて記録に残さない選択をされたのだろう。
40代で活躍中、家族の不幸を経験
2年後の1900(明治33)年6月23日、和は娘の心を病で亡くした。
思い起こせば1880(明治13)年春に心が生まれたとき、故郷の栃木県で結婚した和は、婚家を出て実家にいた。外に子どもをつくって帰宅せず、態度を改めようともしない夫に嫌気がさし、離婚するつもりで里帰り出産したのだ。離婚は女の恥とされた時代に、和が下した大きな決断だった。
黒羽藩の家老だった父はすでに没していたため、和は母の哲と妹のコクと子どもを連れて上京。英学塾で英語を習い、キリスト教に触れ、正規の看護師(トレインド・ナース)を目指すようになる。
優秀さで群を抜いた和はその後、帝国大学医科大学附属第一医院(現東京大学医学部附属病院)の看護婦長、新潟県の高田女学校(現高田北城高等学校)の伝道師兼舎監、知命堂病院の初代看護長など次々と活躍の舞台を移した。その間、心と六郎の二児の養育はすべて母の哲に任されていた。
朝ドラに出てこない息子は…
六郎は最初は文学を志していたものの、東京慈恵医院医学校(現東京慈恵会医科大学)に進み、心も東京慈恵医院看護教育所(現慈恵看護専門学校)に通うようになる。母と同じ医学の道を目指してくれたことは、和にとって大きな喜びだったと思うが、家族らしく食卓を囲むような時間はとれなかったと思われる。和はこの時期、看護婦養成所で教鞭をとり、恩師の死を看取り、著書を出版するなど多忙を極めていた。
そんなさなか、1900(明治33)年6月23日、心が亡くなってしまったのだ。

