最後の分岐点でも条件は割れていた

最後となる3度目の分岐点は8月9日に来た。

8月9日から10日にかけての最高戦争指導会議と御前会議では、東郷茂徳外相と米内光政海相が「国体護持」の一条件でのポツダム宣言受諾を主張したのに対し、阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は、自主的な武装解除、戦争責任者の国内処理、保障占領の拒否を加えた四条件を求めた(東郷茂徳『時代の一面』改造社、1952年、356~357頁)。

「国体護持」を唱えながら、それを確保するためにどの条件まで要求するかを統一できていなかった。

8月10日の日本政府の申入れは、天皇の統治の大権を変更する要求は含まれていないという「了解」の下にポツダム宣言を受諾する、と通告した(国立国会図書館「ポツダム宣言受諾に関する交渉記録」)。これは一条件を付した受諾の申し入れであり、連合国の回答を受けた最終的な受諾通告は8月14日である。

受諾をめぐる国家の意思が対外文書として形になったのは、終戦のわずか5日前だった。

代償を払ったのは中枢ではなかった

冒頭の問いに戻ろう。なぜ、日本は戦争を終わらせられなかったのか。筆者は、1941年11月15日に大本営政府連絡会議が決定した「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」に一因があると考える。

この「腹案」では、日本軍の迅速な作戦、ドイツ・イタリアとの提携、英国の屈服、米国の継戦意思喪失を構想している(アジア歴史資料センター「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案 昭和16年11月15日」)。戦争終結の機会や外交の働きかけ先は列挙したが、戦況が想定を下回った場合の妥協・受諾の条件や具体的な交渉手順を定めていなかった。想定外の状況に、当時の戦争指導の中枢は全くの機能不全に陥っていたことがわかる。

終戦への出口は、1944年夏、1945年6月、8月、3度開きかけた。1度目には出口が封印され、2度目には抗戦方針と和平工作が並走したまま条件を決めきれず、3度目には条件をめぐって意見が割れた。もちろん、終結を遅らせた要因は軍部の強硬論から連合国側の出方まで複数ある。しかし結果的には、天皇の聖断という大日本帝国憲法が想定していない“非常の措置”が用いられることになった。

公文書の時系列が示すのは、軍中枢が軍事的な勝算を失ったと内部文書に記してから、国として負けを受け入れるまでに、1年あまりを要したという事実である。

1944年1月以降に亡くなった約281万人を、すべて「救えたはずの命」と単純に言うことはできない。しかし、戦没者の約9割が負けの見えたあとに集中したという事実は、「終わらせ方」を持たない戦争の代償を誰が支払ったのかを明示している。

戦争の代償を支払ったのは、決断できなかった政府の中枢ではない。前線に送られた兵士と、銃後で暮らしていた市民だった。

終戦直後の千代田区神田三崎町の様子
終戦直後の千代田区神田三崎町の様子。現在のJR水道橋駅の周辺。(写真=『日本大学100年』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons
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