「サイパン放棄」の時点で勝ち目は消えた
最初の分岐点は、1944年夏に来た。日本は1943年9月30日の御前会議で「今後採るべき戦争指導の大綱」(第2回戦争指導大綱)を決定し、マリアナ諸島などを本土防衛のための「絶対確保スヘキ要域」とした(アジア歴史資料センター「今後採るへき戦争指導の大綱(御前会議議題)其の1」)。その要地サイパンは1944年7月に陥落し、東條英機内閣は18日に総辞職した(アジア歴史資料センター「内閣総辞職ニ関スル件」)。
大本営陸軍部戦争指導班の『昭和19年6月 機密戦争日誌』6月24日条には、サイパン放棄決定後、「最早希望アル戦争指導ハ遂行シ得ス」と記された(アジア歴史資料センター「昭和19年6月 機密戦争日誌」)。業務日誌の一記述であり正式決定ではないが、当時の切迫した認識を示す。
より明確なのは、同班が7月27日に作成した「昭和19年末頃を目途とする帝国戦争指導に関する説明」である。同文書は、マリアナ方面の一部失陥と海軍戦力の低下により、戦争遂行の基礎条件は一変した、と認定し、1945年以降に有力な攻勢を反復する実力はないと判断した[「昭和19年7月27日 昭和19年末頃を目途とする帝国戦争指導に関する説明 (最高戦争指導会議席上討議の参考)」]。
本稿でいう「1944年には敗戦が確定していた」という表現は、政府が降伏を決めたという意味ではなく、軍事力で戦争目的を達成する現実的な見通しが失われたことを意味する。
終戦を口にした参謀は中枢を追われた
出口を準備する動きは、軍の内部に確かにあった。戦争指導班は1944年3月15日付「昭和19年末を目途とする戦争指導に関する観察(第3案)(1)」で、6、7月以降に「戦争終末ノ方途」を検討する構想を示した(「昭和19年3月15日 昭和19年末を目途とする戦争指導に関する観察(第3案)(1)」)。
しかし『昭和19年6月 機密戦争日誌』6月23日条には、研究案の印刷は認められず、「絶対ニ外部ニ出サザル如ク」と命じられたとある(「昭和19年6月 機密戦争日誌」)。
班長の松谷誠・陸軍大佐は戦後に『大東亜戦争収拾の真相〔新版〕』(芙蓉書房、1984年、80~82頁)で、東條英機参謀総長らに早期講和を具申し、7月3日に支那派遣軍参謀への転任を命じられたと記した。後世に「左遷」と呼ばれる人事である。ただし、懲罰目的を明記した同時代文書は確認できない。確かなのは、終戦案が政策化されず、提案者が中枢を離れたことである。

