終戦ではなく「もう一撃」を選んだ
参謀総長は1944年7月24日付「大陸指第2089号 指示」で、関係軍司令官らに米軍主力の進攻に対する決戦準備を命じた。戦争全体の「今後採るべき戦争指導の大綱」(第3回戦争指導大綱)が決まるのは8月19日で、作戦準備の指示は大綱の決定に26日先行した。
この大綱では、現有戦力を集中して敵を撃破し、継戦企図を破砕すると定める一方、「飽ク迄戦争ノ完遂ヲ期ス」とした。決戦の成果をいつ講和へ転換するか、失敗時にどこまで譲歩するかは定めていない。「一撃講和」は文書中の用語ではなく、こうした発想を示す後世の分析概念である。
なお、1945年6月8日の御前会議で決定された第4回戦争指導大綱も、「七生尽忠」の信念であくまで戦争を完遂し、国体を護持すると定めた。
判断が遅れ、犠牲者は増えた
2度目の分岐点は、この1945年6月に来た。
内大臣の木戸幸一が6月8日付で起草した「時局収拾ノ対策試案」(木戸試案)は、同年下半期以降に戦争遂行能力を事実上失うと見通し、ソ連仲介を提案した(外務省編『日本外交年表竝主要文書』下巻、616~617頁)。
ここで終戦工作が動き出す。6月18日の最高戦争指導会議は、徹底抗戦を続けながら第三国に和平工作を求める方針を決め、22日には天皇自身が、戦争終結について速やかに具体的な研究を進めるよう促した(庄司潤一郎「第二次世界大戦における日本の戦争終結」)。
だが正式方針は「戦争完遂」のまま動かない。抗戦と和平工作が並走し、連合国に示す受諾条件は一本化されなかった。
1944年夏以降、国が決められずにいる間、犠牲は積み上がっていった。例えば1945年3月10日の東京大空襲では約10万人が犠牲となった。同年4月からの沖縄戦では一般住民9万4000人を含む18万8136人が犠牲になった。原爆による死者は、広島で1945年末までに約14万人、長崎で7万人を超えた。集計期間・対象・方法が異なるため単純合算はできないが、戦争末期に民間人を含む巨大な犠牲が生じた事実は明白である。
条件を示せないままソ連を頼り、門前払い
残された頼みの綱はソ連による仲介だった。だが、政府として確定した条件を示せないままだった。1945年7月13日、政府は天皇の親書を携えた元首相の近衛文麿の訪ソを打診した。その経緯は、米国務省外交史料集(FRUS)収録の「東郷茂徳外相電報」に残る。
ソ連政府は18日付回答で、天皇のメッセージには具体的提案がなく、近衛の使命も明確でないとの見解を示した[米国外交文書(FRUS)]。佐藤尚武駐ソ大使は27日、確定した提案を欠くままではソ連政府を動かせないと警告した[米国外交文書(FRUS)]。
しかもソ連は、2月に米英首脳と結んだヤルタ秘密協定で、ドイツ降伏から2~3カ月後の対日参戦を約束していた[米国外交文書(FRUS)]。実際に8月8日、ソ連の宣戦通告によって交渉経路は閉ざされた(「『ソ』連の対日宣戦通告関係」)。

