家族を養った夫、家族のために我慢した妻
美智子さんが離婚を切り出すと、夫はひどく驚きました。
「退職金のことで離婚するのか? 今まで何不自由なく生活してきただろう」
夫にとっては青天の霹靂でした。長年真面目に働き、家族を養ってきたという自負があったからです。妻や子どもに経済的な苦労をさせなかったのだから、自分は夫として十分に役割を果たしてきたと思っていました。なぜ妻から離婚を言われるのか、理解できなかったのです。
夫にも、妻への不満はありました。子どもたちが独立してから、美智子さんは夫を避けるようになり、食事も別々。休日も友人と出掛け、夫婦で過ごす時間はほとんどありませんでした。
夫からすれば、「家族のために働いてきたのに、妻は自分に冷たい」と感じていたのでしょう。だからこそ、長年働いて受け取った退職金くらい、自分の好きなように使って何が悪いという思いがあったのです。
一方、美智子さんの認識はまったく違いました。家事も育児も一人で担い、夫が安心して仕事に打ち込める家庭を守ってきた。夫の機嫌をうかがい、言いたいことも飲み込みながら生活を続けてきた。その結果、夫への気持ちは少しずつ冷め、できるだけ顔を合わせない生活になりました。
熟年離婚は「突然」ではない
その後も美智子さんの気持ちは変わらず、夫が離婚に応じなかったため別居を開始しました。妻が本気だと理解した夫は、最終的に離婚に応じました。財産分与は行われましたが、既に使われていた退職金の大半を取り戻すことはできませんでした。
熟年離婚の相談では、「妻が突然離婚したいと言い出した」という夫の話を聞くことがあります。しかし、妻から話を聞いてみると、「突然」ではないケースがほとんどです。
話を聞いてもらえなかったこと。感謝の言葉がなかったこと。一緒に将来のことを考えてもらえなかったこと。そうした一つひとつは小さな出来事でも、何年、何十年とかけて積み重なると、やがて取り返しのつかない溝になってしまいます。
夫婦は同じ結婚生活を送っていても、同じ景色を見ているとは限りません。夫は「家族のために働いてきた」と思い、妻は「家族のために我慢してきた」と感じていることがあります。
このケースは、退職金そのものが離婚の原因だったわけではありません。退職金は、30年以上積み重なった夫婦のすれ違いを浮き彫りにした「最後の引き金」だったのです。

