正常な悩みまで発達障害扱いに
2010年代の半ばから、製薬業界は「ADHDは親のしつけや本人の努力不足ではなく脳の特性」というメッセージを大量に発信するようになった。
例えば、武田薬品が運営する啓発サイト「大人の発達障害ナビ」にあるチェックリストは、過酷なビジネス環境にいる人なら、誰でも一度は経験するような項目で構成されている。
「物事の優先順位をつけるのが難しい」
「約束や締め切りを忘れる」
「ミスが多い」
「じっとしていられない」
サイトでは、チェックした結果を「印刷または保存し、医師に面談する際に見せて回答結果について相談することもできます」と勧めており、通常は長くかかる精神科の初診手続きを、大幅に短縮させている。
日本の診断基準の拠り所である米国精神医学会の『精神疾患の診断・統計マニュアル』が2013年に改定された時、前版(DSM-IV)の作成委員長だったアレン・フランセス教授は大人のADHD診断基準がゆるめられたことを、強く警告した。
「製薬会社がチェックリストを悪用し、正常な範囲の悩みまでADHDという病気に変えて、医師を巻き込み患者を増やしている」
ADHD治療薬がスマートドラッグ化
欧米の市場が飽和してくると、次に、「過酷な学歴社会」や「ストレスの多い労働環境」を持つ日本、韓国、中国、インドなどアジアの国々がターゲットになった。
売上げをさらに後押ししたのが、2020年の新型コロナパンデミックだ。
ビジネス街や学校が閉鎖され、人々が家にこもっていたあの頃、アメリカでは、一度も対面せずにオンラインだけでADHD診断をして処方箋を出すサービスが急拡大した。これが「スマートドラッグ」としての乱用を招き、世界的な需要過多を引き起こしている。
今やこの薬は、「治療」や「幸せになりたい」からだけではなく「社会の一員として機能し続けなければならない」という強迫観念から服用されるようになった。
職場環境や、政治の腐敗、社会の不公平さなど、理不尽な制度に向けられるはずの「怒り」や「違和感」は、医療という門をくぐった瞬間に、個人の脳内物質の不均衡という「医学的な問題」にすり替えられてしまう。
1993年のプロザックが「不安や悲しみ、絶望を消すソーマ」だったのに対し、2026年のリタリンは「衝動を抑えて集中力を高め、競争から脱落しないためのソーマ」だろう。
オルダス・ハクスリーがディストピア小説『すばらしい新世界』(1932年)で描いた世界では、不快な感情が湧きあがるたびに、人々は迷わず手を伸ばした。政府が配給する、あの小さな錠剤に。
現代の私たちも、迷わず手を伸ばす。月曜の朝に。プレゼンの前に。大事な面接の前に。誰に強制されたわけでもなく。
検索時に関連する記事が表示されます



