三法師が跡を継ぐのは既定路線

とはあるが、これを裏付ける同時代史料は存在しない。そもそも『川角太閤記』は秀吉の死後に成立した軍記物であり、太閤の出世物語を劇的に演出するために書かれた性格の書物だ。あの「膝の上でうなずくだけ」という場面が、いつの間にか「颯爽たる登場と一同の平伏」に肥大化していったのは、後世の脚色が層を重ねた結果にすぎない。

では、創作を剥がした先に何が残るか。あの日、清洲で、男たちは本当は何を争っていたのか?

そもそもよく誤解されるが、「信長の後継者を決める」ことは、この会議の議題ではなかった。

ドラマの時代考証を担当している一人、歴史学者・柴裕之の『清須会議 秀吉天下取りへの調略戦』(戎光祥出版、2018年)が明快に整理しているように、信長はすでに天正3年(1575年)に嫡男・信忠へ家督を譲っていた。織田宗家の当主は信忠であり、その嫡男である三法師が跡を継ぐのは、争点でも何でもなく、既定の路線である。柴はこれを既に三法師は家督を継ぐ「若君様」であったと指摘している。

こうなるのは、いわば必然である。信雄は北畠家、信孝は神戸家にそれぞれ養子に出ており、宗家の家督相続においてそもそも三法師と競合する立場にない。「勝家が信孝を推し、秀吉が三法師を担いで対立した」という構図自体、後世が作り上げた物語の骨格にすぎない。

『絵本太閤記』より、清洲会議の一場面。3歳の三法師を抱いて現れた豊臣秀吉
『絵本太閤記』より、清洲会議の一場面。3歳の三法師を抱いて現れた豊臣秀吉(写真=日本城郭資料館所蔵/ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

「誰が名代を務めるか」で揉めた

では清洲で実際に揉めたのは何か。三法師が幼すぎるため、誰が「名代」つまり家督代行を務めるかである。

信雄か、信孝か。これは双方ともに譲らなかった。

結果、会議で出された結論は……名代をめぐる対立の先送りであった。結果として名代は設置されず、四宿老が連名で三法師を支える合議制で回すことが決まったのである。三法師の身柄は、安土城が火災で使えないため、当面は信孝の岐阜城が預かることになった。

つまり清洲会議の結論は「大逆転」ではなく「先送り」だった。誰も勝てなかったから、誰も負けない形に落ち着けただけである。

なぜ信雄と信孝は名代の地位にこだわったのか。ここを丁寧に説明しておく必要がある。

ふたりとも「自分が信長の後継者になる」と主張していたわけではない。三法師が織田家を継ぐことに異論はない。問題は、その三法師が成人するまでの間、誰が「後見役」として織田権力の政務を実質的に主導するか、である。

幼君を支える名代の地位は、単なる「お守り役」ではない。三法師が成人するまでの数年間、織田家の政務判断を事実上担う立場である。諸将への指示も、領地配分の調整も、対外交渉も、名代の名のもとに動く。そして三法師が成人したとき、長年その傍らで権力を支えてきた者が有利な立場に残ることは、誰の目にも明らかだった。