「自分の庭」を走った秀吉、「敵の庭」を走った勝家

あらためて、勝家の置かれた状況を秀吉と並べて整理してみる。

まず、情報が届く速さからして違っていた。秀吉が変事を知ったのは3日夜から4日にかけて。勝家が知ったのは6日で、この時点ですでに2、3日のビハインドを背負っている。しかも、その遅れを取り返そうにも、二人が走る道の質がまるで違った。

秀吉の進路である備中から姫路、尼崎を経て山崎には光秀方の勢力がほとんど存在しない。姫路から先は秀吉自身の分国である播磨で、街道も補給拠点もすべて自分の庭だ。一方の勝家は、光秀が押さえた近江の佐和山・安土のど真ん中を突っ切るか、他人の領国である若狭を借りるかの二択しかなく、どちらに転んでも自分の庭ではなかった。

背後の安全度も対照的だった。秀吉は動き出す前に毛利との講和をまとめ、背中を気にする必要をなくしている。勝家はその逆で、背後の上杉は「勝家は敗軍だ」という誤情報でむしろいきり立ち、越中には佐々成政を残さざるを得ず、若狭では牢人衆の挙兵まで警戒しなければならなかった。前門に光秀、後門に上杉である。

おまけに、若狭ルートを使うには遠く大坂にいる丹羽長秀との調整が要り、密書のやり取りだけで貴重な数日が溶けていく。秀吉が自分の指揮下だけで完結して動けたのとは、そこも決定的に違う。

“走った道”があまりにも違いすぎた

つまり、秀吉は自分の庭を、味方だらけの一本道で全力疾走できた。対する勝家は、敵の庭を、他人の許可を取りながら、背中を気にしつつ突破しようとしていた。同じ強行軍でも、走っていた地面の性質がまるで違うのである。

勝家は遅くなかった。ただ、走っていた道が、あまりにも違いすぎたのだ。

なお、勝家や秀吉よりもすごいのは、命がけで伊賀越えをして岡崎城に帰り着いたと思ったら、すぐに出陣、14日には鳴海城まで到着していた家康ではなかろうか。

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