“秀吉以上の猛スピード”だった

6日にこの知らせを受けた勝家は、躊躇することなく、すぐさま北庄城への引き上げを開始している。せっかく魚津城を落とし、黒部川を越えて堺城の目前まで攻め込んでいたにもかかわらず、その戦果をあっさり放り出しての撤退である。

書状には「十日方々傳候を相調、則存分共申越事」ともあり、9日には北庄城に到着し、翌日からは情報収集を進めて方針を伝える、という動きだったことがわかる。

なお、この撤退にともない、越中の後事は佐々成政に託された。しかし、勝家の撤退を見た上杉勢はすぐさま反撃に転じ、ようやく攻略したはずの魚津城まで奪還されてしまうことになる。そこまでしても戻らねばならないほど、勝家も必死だったのである。

戦果を放り出してまで急いだのに、なぜ勝家は出遅れてしまったのか。単に秀吉が早すぎたのか?

勝家が急いでいたのは、移動速度からも明らかだ。魚津城から北庄城までは約160キロである。これを6日夜から9日までかけて進軍したとすると、一日約53キロの速さで移動していたことになる。秀吉の中国大返しについては、盛本昌広『本能寺の変-史実の再検証』(東京堂出版、2016年)などが、当時の通常の行軍速度は一日約40キロ程度だったとしている。また、秀吉の中国大返しの記事でも触れたように、歩兵・輜重込みの全軍行軍は、洋の東西を問わず一日20〜25キロが標準。一日40キロ以上の強行軍は、一日二日が限度である。

つまり、勝家は秀吉以上の猛スピードで、限界突破して急いでいたのである。しかも、秀吉が毛利氏とすでに講和を結んでいたのに対し、勝家は上杉軍からの追撃も警戒しなければならないという悪条件下での強行軍だった。

柴田勝家像
柴田勝家像(写真=『柴田勝家』福井市立郷土歴史博物館/個人蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

“入り口”で遅れ、“地理的条件”も悪かった

おそらくは、騎馬の者は全力疾走、雑兵は遅れながらも必死で走って行くという無茶苦茶な帰還だったろう。そこまでしても、急いだあたりに勝家の本気度がわかる。

ところが、どんなに急いでも勝家は勝てない理由があった。秀吉が備中高松で変事の知らせを聞いたのは3日夜から4日にかけてである。対して勝家が知らせを受けたのは6日と、最初から出遅れていた。

しかも、魚津城から京都までは約310キロあるのに対し、高松から京都までは約220キロと、勝家の方が最初からはるかに長い距離を戻らなければならなかった。

さらに、勝家が兵を休ませた北庄城から京都までは、まだ約150キロも残っていた。秀吉が兵を休ませた姫路城から京都(山崎)までとは、比べものにならないほどの隔たりである。

わかるだろうか。勝家自身は遅くない。必死だった。しかし、地理的条件が圧倒的に悪かったのである。

なにより、上杉に対して警戒を怠れなかったことも、勝家が動くには不利な条件となっていた。大河内勇介「本能寺の変直後の柴田勝家と丹羽長秀」(『福井県立歴史博物館紀要』第14号)によれば、上杉方が本能寺の変の知らせを受けたのは7日から8日にかけて。しかも上杉景勝は、この段階で勝家軍を「敗軍」とみなし、すでに追撃の構えを見せていたという。