“秀吉以上の猛スピード”だった

6日にこの知らせを受けた勝家は、躊躇することなく、すぐさま北庄城への引き上げを開始している。せっかく魚津城を落とし、黒部川を越えて堺城の目前まで攻め込んでいたにもかかわらず、その戦果をあっさり放り出しての撤退である。

書状には「十日方々傳候を相調、則存分共申越事」ともあり、9日には北庄城に到着し、翌日からは情報収集を進めて方針を伝える、という動きだったことがわかる。

なお、この撤退にともない、越中の後事は佐々成政に託された。しかし、勝家の撤退を見た上杉勢はすぐさま反撃に転じ、ようやく攻略したはずの魚津城まで奪還されてしまうことになる。そこまでしても戻らねばならないほど、勝家も必死だったのである。