上杉は、秀吉が討ち取られた“誤報”に勢いづいた
越後まで攻め込まれかけていたはずの上杉が、なぜいきなり息を吹き返したのか。
答えは、とんでもない誤報だった。大河内は6月9日付で景勝が認めた書状を引用している。
仍中国毛利播州・摂州之境ニ相拘候地利、木下藤吉取詰之処、毛利為後詰罷出、木下成擒之由候、然処、信長重而木下為可引助令出馬之処、其以前彼城中之者、後詰之衆揉合、木下討捕之由候、然間信長自半途敗軍之処、信長甥之織田七兵衛令心替、信長切腹之由候、賀州自越前境、追々注進、実儀候哉
(中略)
能州・越中相残国人等、則復先忠之間、為仕置山下迄出馬候、賀州之一揆、元来属当方之間、無別儀候
要約するとこうだ。「毛利に包囲されていた木下藤吉郎(秀吉)は生け捕りにされた。信長が助けに出たが、それより前に木下は討ち取られた。その混乱のなか、信長は敗走し、甥の織田七兵衛(信澄)に裏切られて切腹した」。
何一つ合っていない。秀吉は生け捕りにされていないし、信長を死に追い込んだのは信澄ではなく光秀である。伝言ゲームというレベルすら超えた、原型をとどめない誤報だ。だが、越後・加賀国境の一帯では、この「大勝利」情報がそのまま事実として流通し、上杉方を勢いづかせていた。
光秀にふさがれた“正面”、くすぶる“迂回路”
しかも大河内によれば、11日から13日頃には光秀の使者までもが景勝のもとを訪れ、協力を要請している。景勝にしてみれば「言われなくてもそうする」というところだろう。
秀吉は、信長の弔い合戦という大義名分のもと賛同者集めに全力を注げた。これに対し、勝家は、まず東から押し寄せる誤報混じりの攻勢をどう鎮めるかを考えなければならなかった。秀吉への牽制に回るのが遅れたのは、この東側の火消しに手を取られていたからでもある。
さらに、勝家は光秀と激突するのはもっと先だと考えていたようだ。既に、光秀は近江方面の攻略を効率よく進めており、佐和山城も安土城も、すでに光秀の影響下にある。つまり、越前から近江に入るルートは塞がれている。
そこで勝家が検討したのが、若狭を経由して京都方面へ抜けるルートだった。若狭は丹羽長秀の領国で、家老の溝口秀勝が高浜城(福井県高浜町)に入っている。つまり、このルートを使うには長秀サイドとの調整が要る。ところが、肝心の長秀は大坂にいる。密書のやり取りだけで数日はかかる距離だ。
しかも、その若狭では牢人衆が光秀に呼応して挙兵する動きまで出ていた。正面は光秀にふさがれ、迂回路は根回しに数日かかり、しかもその迂回路自体がくすぶりかけている。どう転んでも、すぐには動けない。だから、まずは状況を整えてから弔い合戦を行うというのが勝家の構想だったのだろう。
ところが、光秀が近江方面の封じ込めに力を割いた分だけ、摂津・播磨方面への警戒は手薄になった。結果として、秀吉は誰にも邪魔されず軍をまとめ、難なく上方へ進出できたのである。

