旅館の危機を救った「洗車場」

結婚から1年ほど経った頃、銀行が旅館を売却して借金を返済するよう迫ってきた。老朽化の進む旅館に、これ以上の貸し付けはできないとの判断だった。

力さんと父は買い手を探し、山口県内はもちろん四国や九州にまで足を延ばした。昼間に商談をするため、車での移動は夜になる。昼夜休みなく探し回っても、旅館を買おうという人は現れなかった。万策尽きたかに思えたとき、意外なところから突破口が開く。

交通量の多い道路に面した土地に目をつけたセールスマンが、「高速洗車場」を提案してきたのだ。人の手による洗車がほとんどで、機械による洗車など非常に珍しかった時代である。きっと評判になると思った2人は、腹をくくった。

洗車場を造るには、さらにお金を借りなければならない。返済を迫る銀行におそるおそる3000万円の追加融資を打診すると、「それくらいなら」とポンと貸してくれた。今の価値にすると1億円を超える金額だ。

旅館の一部を撤去して造った高速洗車場は、すぐに人気となった。人が乗ったまま自動で運ばれた車が、わずか3分でピカピカになる様子が道路からもよく見えるため、朝から晩まで車が列を作る。力さんは洗車場に一日中付きっ切りだ。旅館の仕事がない昼間は、高美さんも洗車場で働いた。

「2人ともまだ20代で体力があったから、昼も夜も働けたのが本当にありがたかったですね。ミニスカートを履いて、大きな声を出して呼び込みもしました。それまでずっと旅館しか知らなかったものですから、洗車場の仕事は、それはもう楽しかったですよ。大好きで、ずっと続けたいと思っていました」

そう言った高美さんの目には、涙が光っていたように見えた。

「すぐに現金が入る商売でしたから、毎日売り上げを銀行に持って行きました。追加で借りた分のお金はあっという間に返済でき、もともとの借金もなくなりました」

力さんも、当時を懐かしそうに振り返る。

しかし4年後、銀行は旅館業に集中するよう提案する。山陽新幹線が岡山から博多まで延びると決まり、関西からの客の増加が見込まれたからだ。

2人は泣く泣く、旅館の危機を救ってくれた洗車場を手放した。

昔を振り返りながらインタビューに答える宮川夫妻
撮影=山口ちゆき
昔を振り返りながらインタビューに答える宮川夫妻

新幹線開通、旅館を一気に拡大

1975年、山陽新幹線の岡山・博多間が開業し、山口の景気は一気によくなった。洗車場のあった場所に1号館を建て、以前の10倍以上となる62室の客室と新しい風呂、滝、広い宴会場を造った。常盤旅館の新しい時代の始まりだ。

「断らない」がモットーの高美さんは、結婚式の受け入れも始めた。300人以上の規模になって宴会場で収容できないときには、夜中に従業員総出で広間を結婚式用にアレンジする「どんでん返し」をおこなう。高美さんは従業員のために夜食を作り、巫女役を引き受け、毎晩の女将劇場も続けた。