上杉謙信とは当初、同盟関係にあった

では、謙信はどうだろうか。信長と謙信は、当初は同盟関係にあった。上洛後は、共通の敵である信玄への対抗という利害が一致したのか、足利義昭を将軍として奉戴するという大義名分のもとで連携していたのだ。信長はこの関係を極めて重視していた。現在、山形県米沢市上杉博物館が所蔵している国宝「上杉本洛中洛外図屏風」は狩野永徳が手掛け、1574年に信長から謙信に贈られたものと伝えられている。

これが送られた背景は、信玄との同盟が手切れになった後の変化がある。朝倉・浅井や畿内周辺の諸勢力に加えて信玄との対峙を余儀なくされた信長は、謙信との同盟に至ったわけである。江戸時代になって成立した『北越軍談』によれば、この時に信長と謙信は書状を交わしている。そこでは、こんなことが書かれている。

就越甲和与之儀、被加上意之条、内事去秋以使者申候処、信玄所行寔前代未聞之無道、且者不知侍之義理、且者不顧都鄙之嘲笑次第、無是非題目候。

(上杉謙信殿と武田信玄の)越後と甲斐の和睦の件については、将軍様(足利義昭)の命令もあって、私(信長)も内々に去年の秋から使者を送って調整してまいりました。

しかし、今回の信玄の振る舞いは、まさに前代未聞の非道なものです。そもそも侍としての義理をわきまえておらず、都や田舎の人々から(約束を破ったと)あざ笑われることも全く気に留めていない様子。もはや、これについては是非を論じるまでもない(救いようのない)話であります(井上鋭夫 校注『上杉史料集』中巻 新人物往来社 1969年)。

上杉謙信の肖像画
上杉謙信の肖像画(写真=上杉神社/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

垣間見える“信長の気遣い”、焦りがあったか

信長は怒るというよりあきれ果てた感じでめちゃくちゃ謙信にすり寄っている「いや〜、あの信玄の野郎、俺が将軍の意を受けて頑張ってたのに、いきなり攻め込んできたんですわ‼ 仁義も知らない酷いやつですわ〜」という雰囲気である。

このほかにも書状では「以誓詞蒙仰之趣愚と意令卒喙之間(貴殿が誓紙をもって仰られた趣旨と、私の愚かな考えが一致しました)」とか、とにかく下手に出まくりである。

この後『北越軍談』では、この書状で同盟締結に至る過程を解説している。そこでは、大徳寺の唐首座や長与市(長景連)などが奔走、とにかく謙信が同盟を締結しやすい状況に持ち込む下準備をしたことが記されている。とりわけ『北越軍談』では、書状に卒喙=雛が内側から殻を突き(卒)、母鳥が外から殻を突く(喙)。このタイミングが一致して初めて雛が誕生する……という、禅の素養があった謙信が好みそうな言葉を用いたことを評価している。

魔王と呼ばれる信長が、存外に気遣いの人だったことを知らしめるポイントだが、同時に、なんとしてでも同盟しないとヤバイという焦りがあったことを示すものだ。なにより、この文書、具体的な部分は「猶長与可被有口上候(詳細は使者の長与が口頭で伝えます)」とだけして、とにかく感情だけで押し切っている。とにかく「謙信さん、あなたは正しい! 信玄は最悪だ! 僕たち、運命の赤い糸で結ばれてますよね(卒喙)!」と、まずは感情を120%ぶつけて、謙信を「その気」にさせることが最優先になっているのだ。