17歳の青年のために“早期治療を試みた大関和”

入学のために一刻も早く退院したいと希望する相馬のために和は医師と相談、1日1回の塗り薬を3回に増やして早期治療を試みることにした。この疥癬という病気は非常に臭気があるので看護婦も嫌がるもの。ところが、婦長として君臨する和は看護婦達に檄を飛ばして治療にあたる。これによって相馬は退院を早めることができたのである(参考・村上信彦『近代史のおんな』大和書房、1980年)。

これで「なんと親切な看護婦だろう」では終わらない。まず和は看護婦としての献身も見事だが、それ以前に美しい。

帝大病院で婦長をやっていたのは、30歳を過ぎたばかりの頃。対して相馬は長野県の安曇野から出てきたばかりの17歳の青年である。そんな相馬のために天下の帝大病院の美貌の婦長が医師に掛け合って、献身的に看護をしてくれる。

「と、東京ってのは、なんて素晴らしいところなんだ〜!!!!!」

……となるのは、止めようがない。

ともあれ2人の友情は和の晩年まで続くことになる。

社会主義者・木下尚江との恋

ところが和も人の子である。やっぱり本能のほうが先立つこともあった。それが、木下尚江との出会いである。

木下尚江
木下尚江(写真=国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

木下は、日本の社会主義運動の父と呼ばれる堺利彦らと共に社会民主党を結成した明治期の社会主義者として名を残す人物だ。その木下に和を紹介したのは、先ほどの青年・相馬であった。この木下、思想家としてはともかく、キリスト教の洗礼を受けているのに女性関係がだらしない男である。しかも、妾と縁を切るときに自分は出ずに相馬に話をつけさせたりしているというから、本当にだらしがない。

そんな木下と和が恋に落ちてしまったのだから、男女の仲というものはよくわからない。しかも、木下は和に熱心に説かれて廃娼運動にも参加している。

どうもこれ、一方的に木下が惚れた直後に長野県議選をめぐる汚職で逮捕、無罪になるまで1年あまり収監されていたことが影響しているようだ。この間、2人は文通を交わし、和は何度も差し入れを続け、出獄後は結婚というところまで話が進んだ。なお、二人が出会ったのは1891年とする資料もあるから、和は33歳、木下は22歳、つくづく年下の男性にモテるものである(参考・日下部桂『松本平文学漫歩 続』信濃往来社、1959年)。