一族からのプレッシャー

ところが、高棟が引退し、団が暗殺されると、「団氏亡きあと、団氏と同年である先代八郎右衞門氏の長男、三井高公氏が社長に就任された。しかし、先代三井八郎右衞門氏が団氏とのコンビで三井十一家を抑えていただけに、その引退のあとを受けた高公氏の苦労は多かった。十一家のご主人の若手のなかには俊敏な方々が多く、これまで沈黙を守ってきた反動もあって、その取り扱いに手を焼かれた。また本来、三井家は家憲によって十一家は一体であり、総領家の当主が社長として全体を統轄する建前が連綿と続いていたにもかかわらず、時局が大きく動き、下剋上が一般的になっていた世情も反映して、若い高公社長の手に負えなくなった」(『三井と歩んだ七〇年』)

また、団の後任の池田成彬にいわせれば、「私が〔三井〕合名にいってはじめてわかったのだが、あすこの理事長の仕事というものは、三井家のまとめ役です」。「三井は十一家であるのですが、持株の数は違うけれども、その十一家にはやかましい人もあり、口を出す人があって、そのまとめ役というものは一通りではない」。「合名にいってから、私の時間なり、エナージーなりの七、八割まではその方に使い、あとの二、三割だけが本当の合名の仕事に向けられた」(『財界回顧』)。

三菱財閥は当主みずからが経営全般を取り仕切り、住友財閥は当主が専門経営者に全面委任していたが、三井財閥は専門経営者が経営を担っているとはいえ、大株主・三井一族からのプレッシャーが半端ではなかった。しかも、十一家が銘々に発言するので、とにかく大変だったらしい。また、十一家が三井財閥の直系会社の役員に分担して就いていたため、一社に複数の三井一族がおり、各社の派閥争いの遠因になったという。