恐ろしい怨霊だからこそ「最強の守護神」に
このように、非業の死を遂げた人や、怨念を残して亡くなった人の霊は、時に疫病や天災などのマイナスの作用(祟り)をもたらすと考えられてきました。
先に挙げた「天満天神」こと菅原道真公、「白峯大神」こと崇徳天皇、そしてほかならぬ将門公。いずれの御祭神も、その負のパワーの強さゆえに神様として祀られ、御霊(ごりょう/みたま)としてお鎮まりいただくことで、平和と安寧が保たれると考えられました。
これがいわゆる「御霊信仰」と呼ばれるものですが、重要なことは、祟れば恐ろしい怨霊でありながら、手厚くお祀りすれば最強の守護神に転じうると考えられたことです。現代人の目からは不合理にも映りますが、この二面性は、実は日本の神様信仰の底流をなす重要なセオリーだったりもします。
将門公に戦勝祈願して戦に向かった家康
さて、〈将門公(神田明神)に祈願すれば勝負に勝つ〉。古くからそんな言い伝えがあるそうです。そのきわめつけは、徳川家康の以下の逸話でしょう。
慶長5年(1600)、上杉氏を討つために関東に下った家康は、神田明神に戦勝祈願をして会津に向かいました。ところが、石田三成らの挙兵の報を聞いてすぐに江戸に帰還。神田社に合戦勝利のために祈祷するよう命じ、勇躍関ヶ原に向かいました。
そして9月15日、徳川連合軍(東軍)は“天下分け目の合戦”に大勝利を収めます。その日はくしくも神田明神の例祭日でした。つまり、神社の草創にかかわる特別な日に決戦を制したわけです。家康と神田明神の因縁として、これ以上の事実はないでしょう。
ちなみに、同社で頒布されている「勝守」は、この奇縁に由来するものです。
ともあれ、こうして神田明神は徳川家が特に尊崇する守護神となり、江戸城の鬼門(東北)に遷されるとともに、その例祭(神田祭)は「天下祭」として発展しました。
明治維新後、将門公の御霊は朝敵としていったん主祭神から外されましたが、人々の崇敬の念は変わることなく、1984年、ついに本殿へのご帰還を果たしました。現在も、神田をはじめ、秋葉原、大手町、丸の内、築地、日本橋など、108もの町会の総氏神とされています。

