実力主義の武士の世を先取り
結果として、反乱は短命に終わるのですが、将門は実力主義の武士の世を先取りした開拓者とされ、平親王(将門の異名)の志はのちの鎌倉幕府創設へとつながる伏線になったともいわれています。
このため、天皇中心史観において将門は「朝敵」あるいは「大逆賊」とよばれるいっぽう、中央の圧迫に屈せず自分らの利益を守った、独立不羈すなわち「何ものにも縛られず、自立した姿勢を貫く」坂東武者のアイコンとして仰がれてきました。
事実、中世から近世にかけ、関東で躍動した武者たち――千葉氏、秩父氏、江戸氏、豊島氏など、地名にその名を残す有力氏族はみな将門の後裔を称し、太田道灌や北条氏綱といった兵は、将門公を関東を平定した祖神として将門公をあがめました。
日本三大怨霊のなかでも「最恐」の存在
もうひとつ見逃せないのが、将門公が日本三大怨霊の一(ほかは菅原道真、崇徳天皇)にして、最恐とも評される怨霊としての神格(キャラクター)でしょう。
都市伝説の脈絡でよく知られているのは、東京・大手町の「将門の首塚」です。
いわく、関東大震災(1923年)後にこの周辺に旧大蔵省の庁舎を建設しようとし、当時の大臣や関係者が病死や変死を遂げた。あるいは第2次大戦後、日本を占領下においた連合国軍総司令部(GHQ)がこの周辺を駐車場にしようとしたら、整地作業のブルドーザーが突然ありえない横転事故を起こし、関係する米軍将校が不審な死を遂げた……などなど。
もちろんこれらは近代になって語られた風説によるもので、正確な歴史的事実を反映したものではないのですが、「最恐」とされる理由を探ると、〈京都で晒し首になった将門の首が、失った胴体を求めて夜空を飛行し、それが大手町のここ(武蔵国豊島郡芝崎村)に落ちた〉という伝説にたどり着きます。
なんとすさまじき怨念か――。

