そうした一族にあって、久政は従来からは信長への裏切りを主導して、浅井氏を滅亡に導いた馬鹿親父のような扱いをされてきた。これは、主として『浅井三代記』に寄るところが多い。この史料の基本スタンスは、久政への容赦ないディスりである。

これによれば、久政が家督を継いだのは完全なタナボタであった。本来、家督を継ぐべきは、知勇兼備の嫡子・新三郎高政であった。彼は美濃との戦いでも連戦連勝し、亮政も深く信頼を寄せていたが、早世してしまう。そのため、次男の新九郎(久政)が周囲からの強い懇願に押される形で跡継ぎとなったとされている。

浅井久政像
浅井久政像、高野山持明院所蔵(画像=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

『浅井三代記』の、この部分はとにかく久政に辛辣だ。

 次男新九郎は心にふくして亮政の御心にはかなはせ給はねとも、御前より達ての訴訟により、新九郎十八歳なりしか、于時(時に)亨禄二己丑歳に、新九郎を下野守久政と名をあらため、井口弾正忠か娘をめあはす。
 此娘は、親井口弾正、番場の地頭山にして亮政の命に替り切腹したる故、其年より亮政の御前矢島殿、小谷の城へよひよせ養育し、当年十三に成。親弾正忠か忠節を報せんか為、今久政か妻女とはなし給ふ。かくて此事江北に隠れなけれは、各常国は申におよはす、美濃一国の諸侍まて我も我もと馳集り、太刀折紙を以て御祝儀をそ申ける。
(近藤瓶城編『史籍集覧』第6冊 近藤出版部、1919年)

「跡継ぎにはふさわしくない」とみなされていた

現代語訳は以下の通りだ。

 次男の新九郎(後の久政)は、腹に一物あるような陰気な性格で、父・亮政の意に叶うような跡継ぎではなかった。しかし、正室(矢島殿)ら周囲からの強い要望があり、新九郎が18歳の時、享禄2年(1529年)に、名を「下野守久政」と改めて家督を継ぐことになった。
 亮政は、この久政に井口弾正忠の娘を娶らせた。この娘の父・井口弾正は、かつて番場の地頭山で亮政の身代わりとなって切腹した忠臣であった。そのため、亮政の正室・矢島殿が小谷城に引き取って大切に育て、13歳になった今年、父の忠節に報いるために久政の妻としたのである。
 この家督相続と婚礼の儀は、北近江の国衆はもちろんのこと、隣国・美濃の武士たちまでもが我先にと祝いの品を手に馳せ参じ、盛大な祝儀が執り行われた。

この記述、めちゃくちゃイヤらしい。祝賀ムードを生んだのは「亮政の身代わりに切腹した井口弾正の娘を、亮政の正室が引き取って育て、その娘を息子の嫁にした」という、亮政の徳の物語である。久政の人徳でも力量でもない。

要するに『浅井三代記』の作者は、「本当はもっと優秀な兄がいたのに、運悪くそいつが死んだから二流の弟が繰り上がった」という設定(しかも、その兄・高政が本当に嫡男だったかも怪しい)をわざわざ持ち出して、久政をディスっているのである。