実家の血を残した市のしたたかさ
ここで、市の3人の娘について見ておく必要があるだろう。市の生年は天文19年(1550)とする説が有力で、永禄10年(1567)に浅井家に嫁いだとされる(もっと早かったとする説もある)。おそらく永禄12年(1569)に茶々が生まれ、ほかの2人は次女の初が元亀2年(1571)、三女の江が天正元年(1573)に生まれた可能性が高い。
茶々は周知のとおり、のちの秀吉の別妻、淀殿である。初は京極高次に嫁ぎ、子は産まなかったが、江は徳川家康の嫡男、すなわち2代将軍秀忠の妻になって、3代将軍家光を生んだ。織田家のために浅井に嫁いだ市だが、夫の長政が信長を裏切ったのちも、2人の娘を産んでいる(江は長政離反の時点で妊娠していた可能性もあるが)。
それは市のしたたかさの表れでもある。婚家が敵対したとしても、そこに実家の血を残すという戦国女性の役割を、見事にまっとうしているからである。
さて、太田浩司氏は『浅井長政と姉川合戦』(淡海文庫)で、非常に的を射た疑問を呈している。
〈浅井家家臣には多くの離反者が出たが、最後まで小谷籠城していた家臣さえも、形勢の逆転を信じていたものは、おそらくいなかったであろう〉とし、〈この状況の中で、市と三姉妹は、ほんとうに落城寸前に小谷城から脱出したのだろうか〉というのだ。続けて、〈落城に至るまでの間に、浅井長政と織田信長の間には様々な交渉があったはずで、その中でも男子はともかく、市と三姉妹はもっと早い段階で、城外に脱出していたことも想定されてよい〉書く。
秀吉からの異例の対応を受けた寺の正体
そして太田氏は、小谷城の南東にある実宰院という寺に目をつける。長政の姉である昌安見久尼が中興したこの寺には、小谷落城に際して長政が、姉に3姉妹の養育を依頼し、見久尼は実宰院でその役割を果たした、というものだ。
それは伝承にすぎないとはいえ、実宰院には、三姉妹との濃厚な関係を思わせる記録が多いという。たとえば、慶長2年(1597)5月1日の豊臣家奉行連署状は、長束正家、増田長盛、浅野長政、前田玄以と「五奉行」のうちの4人が署名して、実宰院の跡目は、現在の住持尼の希望どおりでいいと、秀吉の許可を得たうえで、京極高次に伝えている。
それがなにを意味するかだが、まず、京極高次は3姉妹の次女、初の夫で、この高次が実宰院に深く関わっていたことがわかる。そのうえ、実宰院などただの小さな寺なのに、そこの住持をどうするかについて、秀吉の許可が必要だというのは異様だ。おそらく、秀吉より淀との関係なのだろうが、すると、初と淀と深い縁があった、ということが想起される。
それ以前にも、秀吉は天正19年(1591)4月23日、実宰院に50石の土地を寄進する朱印状を出しており、これも小さな寺への対応としては異様である。
