「事前に信長の元へ送られた」
「豊臣兄弟!」では、概ね次のように描かれる。信長が藤吉郎(池松壮亮)たちに、長政との和睦交渉と市の助命嘆願をすることを許したので、ついに小谷城に攻め入った藤吉郎は主殿に赴く。だが、長政は生き残ることを潔しとせず、市に逃げるように指示して、みずからの命は絶ち、小谷落城となった――。
だが、当時の記録は一般に、女性についての記述が少なく、市と娘たちがどのようにして生き延びることになったのか、同時代の史料からはわからない。寛永年間(1624~44)に成立した『当代記』には、〈浅井長政の妻は信長の妹で、それゆえに、問題なく引き取られた(原文 浅井備前守妻女は信長妹也、然る間、異儀なく引き取られる)〉と書かれているが、いったいいつ、だれが、どこに引き取ったのか、さっぱりわからない。
貞享2年(1685)ごろに成立した織田信長の伝記『総見記』には、次のように書かれている。
8月29日の朝までに、(信長軍は)浅野備前守長政の居所を取り囲み、夜も昼もなく攻め続けた。長政には正室に3人の娘を産ませており、彼女たちをなんとかして助けたいと思ったので、藤掛三河守永勝と木村小四郎を従わせ、28日の夜には正室と3人の娘を信長のもとに送り届けた
原文 二十九日ノ朝マテニ備前守ノ居所ヲ囲テ、夜昼ヲモ継セス攻ル、備州長政ハ内室ニ三人ノ女子ヲ有リケルヲ、イカニシテタスケタク思ハレケレハ、藤掛三河守ニ木村小四郎ト云者ヲ輿添ニツケテ、廿八日ノ夜内室並ニ三人ノ女子ヲ信長公ヘ送リ越サル
夫婦の最後の別れはもっと早かった
後世に成立した読み物なので、参考程度にしかならない。とはいえ、天正元年(1573)8月28日夜、すなわち小谷城が織田軍の総攻撃を受ける前夜、落城の前々日までに、市と3姉妹は信長のもとに送られた、という記述は気になる。
じつは、寛文年間(17世紀後半)に記された浅井側に立った読み物『浅井三代記』も、市たちが落ち延びた日は同様に、8月28日としている。その日に長政は市を呼び、「お前は信長の妹なのだから、なんの差し障りもないので、信長のもとへ送り届けよう」〔原文 汝は信長の娘(ママ)なれば何の仔細も候まし、信長の許へ送べし〕というと、市は一緒に死にたいという。
そこで長政は「いま花のように可憐な姫たちを死なせるなど不憫であるから、事情を汲んで逃げてくれ」〔原文 今花のやう成る姫共を害せん事も不便(ママ)なり、理をまげてのがれよかし〕と説得し、市たちは逃げた、という。
もし、これらの記述どおりであれば、いつも大河ドラマなどで流される、落城寸前の小谷城から必死に逃げる、という映像は、史実と異なることになる。

