鋭い爪も「飛ぶ敵」には効果がない
夏の山には大型アブのウシアブが大量にいて、酪農家のウシを襲い、クマに取りつき、私の観察をも邪魔する。大きさはスズメバチと同じくらいで姿がそっくりだが、慣れると判別がつくようになり、背中から指でつまんで外に出している。
ウシアブの半分ほどで白いサシバエは噛まれると強い痛みと、続いて痒みが襲ってきて、私にとってはこのほうが脅威だ。夏になるとクマたちはアブに悩まされていて、とくに肌が露出している耳の縁を噛まれ続けるので耳搔きに励んでいる。
そのとき、普段は折りたたんで隠している鋭い爪を繰り出す。5センチメートルもある爪は刃物と同じく鋼色に光る。しかしアブには何の脅しにもならず、クマは堪らず耳を振って追い払うしか方法がない。
クマ襲撃事件の悲劇を物語るボロボロの車
サシバエで私は恐ろしい思いをしたことがある。十和利山クマ襲撃事件での犠牲者4人のうちの1人は私の遠縁にあたり、取材を兼ねてその男の兄を見舞った。食害された遺体の状況をひととおり聴取したなかで、弟が事故当日に乗っていったパジェロミニの話になり、「弟の車に身内で乗る者がいなくて、近くの買取センターに置いてあるが5万円でも売れない」と話していた。
私はこの事件の取材用に軽の四駆車を探していて、それを見に行った。駐車場に並んでいる車両は低額のものばかりだ。その車の後部ハッチや運転席のドアは錆びて穴が開いているが、この車ならもう少し高いものだ。そのとき周りが急に暗くなり、車体の緑色が闇に溶け込んだように感じた。私はハッチの錆び穴に指を入れて「もしや開くかな」と力を入れた。
途端に腕に激痛が貫いて左手で右腕を叩いた。腕の上でサシバエが潰れて、次いでスポンジのように膨れてアスファルトの上に落ちた。痛みはクロスズメバチ以上だった。遺体の惨状を聞いたばかりだったので背筋に冷感が走った。
「市街地にサシバエが……きっと弟さんは、私にこの車を買ってほしくないんだ」
1カ月後には3万円まで値が下がり、さらに2カ月後に車は消えていた。

