3つの選択肢

ありきたりながら、堀田さんが調査隊に加わった経緯から聞いた。堀田さんは1981年12月出発の第1次隊だけでなく、1984年1月出発の第2次隊にも参加している。

「カメラの整備のために、なじみの機材屋さんに立ち寄りました。そうしたら知っている製作関係の方から『シーラカンスの調査でアフリカに向かう人たちが、カメラマンを探している』と聞きました。『えっ』と思いましたよ。シーラカンスが貴重な魚であることは知っていましたから。他でもない、その調査だというから、代表の篠之井さんに会ってみることにしました。

当時、僕は3つから仕事を選ぶことができた。ひとつ目はよく仕事をしていたプロダクションからきた、ソロモン諸島の漁民たちを民俗学的に撮影する依頼。2つ目は、省エネルギー問題をテーマにしたテレビの仕事で、3つ目がシーラカンスだった。プロダクションの仕事はいつもの仲間とやるから安心で、ギャランティーもだいたい分かる。

世界的な関心事項になっていた省エネ問題で、各国を回るのも面白い。そんな考えを持ちながら篠之井さんに会ったら、『12月の出発に向けて準備を進めているけど、コモロが受け入れてくれるかは分からない。そういう状況だけど撮影をやってくれないか』と言われました。

不安定な契約にちょっと逡巡しましたが、『シーラカンスに立ち向かう』というのが魅力的で、参加を決めました」

そのような状況であれば、迷うのは当然だ。先述のようにコモロ諸島は政情のこともあり、篠之井さんも「行ける」と断言できない。

堀田さんが、それでも面白いと感じてメンバーに加わる選択をしなかったら、僕がインタビューすることもなかった。心の中で、44年前の堀田さんの果敢な決断に感謝した。

漁村での隊員生活

第1次調査隊は1981年12月に日本を発ち、コモロ諸島で約1カ月活動した後、1月に帰国している。毎日の活動はどんなものだったのだろうか?

「ベースキャンプは、首都モロニ近くにあるハンサンブという漁村に置きました。そして、その拠点から我々は常に一体で動いていました。単独行動は許されません。何かトラブルが起きたら、受け入れてくれたコモロ政府に迷惑をかけてしまうからです。

大きな仕事としては、漁師たちへの呼びかけがありました。コモロの放送局を通して、ラジオで呼びかけてもらう。『シーラカンスを釣ってくれ。釣った個体は、我々のほうで引き受ける』。こうした放送をモロニがあるグランドコモロ島だけでなく、他の3つの島の漁師たちにも伝えました。

モロニ港
モロニ港(写真=Woodlouse/CC-BY-SA-2.0/Wikimedia Commons

ハンサンブの長老に会って許可を得て、シーラカンスを釣るために漁師を雇うこともしました。確か6人だったかな。彼らに毎晩、海に出てもらった。そして戻ってきたら、どんな魚を釣ったかを海岸で調べました。

ハンサンブ以外の漁村にも、『シーラカンスを釣ってくれ』とお願いに出向いています。実際に捕獲してくれたのはミツアミューリという村の漁師でしたが、他にはイコニ村とかを回りました。また、村々で過去にシーラカンスを釣った実績があるか聞き取りました。僕はこれらの活動を16ミリカメラで撮影しました」

デジタル撮影になった今だとSDカード1枚で数時間分の映像を記録できるが、1981年はフィルム時代だ。全く勝手が違う。

「フィルムは何万フィートとたくさん持って行きました。メインのカメラはドイツ製のアリフレックス16SR。当時の最先端カメラです。サブがキヤノンのスクーピック。いまのデジタルとは違うけど、比較的ぱっと回せるタイプです。

同じく調査隊員の小林一平さんが、長いポールにつけた録音機で音声を録っていました。代表の篠之井さんには、ドキュメンタリー映画を作りたいという想いがあったわけですから、機材はしっかりしていましたよ」