過去の自分は「無罪」と言い切れるか
この「環境型セクシュアルハラスメント」のように、「ハラスメント」をめぐる認識の違いは、環境に大きく左右されるのではないか。
私の個人的な事情で言えば、京都大学に入学した1999年、同大学教授だった矢野暢氏による、秘書たちへのセクハラに関する糾弾が続いていた。矢野氏は、同年に亡くなるものの、学内では「矢野事件」の教訓を学ぼうとする集会や勉強会が開かれていたし、今や弾圧されてしまった「タテカン」(立て看板)にも、激しい文字が踊っていた。私が接した教員のなかにも、「ハラスメント」の疑惑を向けられた人がいた。
その5年後に関西テレビに入社した際は、反対に、今なら「ハラスメント」とされる光景があった。私自身も、胸に手を当てれば、完全に無罪とは言い切れない。無自覚な失言にとどまらず、無神経を通り越して、今なら「セクハラ」と言われても仕方がない。注意していたつもりの私でさえそうなのだから、ましてや「昭和」を生きてきた世代は、「令和」の今なら目も当てられまい。
たった1つの「サバイバル術」とは
こうしたマスコミ業界のズレは、昨年から今年にかけて続発している。昨年、フジテレビの第三者委員会は、取締役だった反町理氏について調査の結果、「セクハラ」と「パワハラ」があったと認定した。同氏の2006年から2008年にかけての振る舞いが、およそ20年近くを経て明るみに出た(参考〈フジテレビの隠蔽は中居正広だけではなかった…「名物キャスターの幼稚なセクハラ」がまかり通るテレビのヤバさ〉プレジデントオンライン、2025年4月2日19時配信)。先日、毎日新聞社は約10年前、当時の男性取締役が「セクハラ」行為をしていたと発表した。
「ハラスメント」に時効がない傾向が続いている以上、私もまた無傷ではいられないのかもしれない。では、どうすれば生き延びられるのか。
どこまでが、とか、何が、といった基準や境界線に恐々とするのでは、終わりが見えないし、かえって「当たり前」の感覚を失いかねない。それよりも、あらゆる言動が「ハラスメント」になる、そうした前提に立たなければならない。どこまででも、何でも「ハラスメント」になりかねないし、なりうるのだから、常に自分の「当たり前」を疑い、そして、信頼関係を築こうと試みなければならない。
こうすれば大丈夫、とか、これなら問題ない、といった魔法の杖は、どこにもないし、誰も安全圏にはいられない、と認識する。そこをデフォルトにしなければならない。かといって萎縮するのでも、開き直るのでもない。常に自分たちの常識を問い直し続ける。その絶え間のない進歩の過程こそ、たったひとつの「サバイバル術」にほかならないのではないか。

