「幼稚」の評価は確認できない
そしてヘルン死去(9月26日)からわずか5日後の10月1日、ニューヨークの有力紙「ニューヨーク・トリビューン」は追悼書評を掲載した。見出しは「LAFCADIO HEARN――アメリカ文学における唯一無二の作家」である。
ヘルンは言葉において常に繊細な職人だった。ときに繊細すぎるほどに。彼の英語は時に過剰な洗練を帯び、何か病的な温室育ちの印象を与えることもあった。しかし散文作家として、また人種の謎を指で探る心理学者として、彼が残した最後の言葉はまだ研究されるべきだ。
(“Lafcadio Hearn: A Writer Unique in American Literature,” New-York Tribune, October 1, 1904, Chronicling America, Library of Congress.)
(*筆者による日本語訳)
さらに怪談の収録作について、同記事は具体的にこう評している。
(*筆者による日本語訳)
ここで「ヘルン自身が発明した」という表現は批判ではなく、彼の独自の創造性への賛辞として文脈の中で使われている点は重要だ。
三紙三様だが、いずれも一致しているのは、怪談を高く評価しているという事実である。「幼稚」という評価は、少なくとも当時の英語圏メディアには存在しない。
“八雲の死後”すぐに奔走したビスランド
では、実際にビスランドが『怪談』をどう評価しているのか。手がかりは1906年刊行の『ラフカディオ・ヘルン書簡集』第1巻にあった。
ここで、ビスランドは、こう記している。「『怪談』の中に『ひまわり』という小さな物語がある。これはヘルンの少年時代を垣間見せてくれるものだ」と述べ、その後こう続ける。
この素朴な物語には、後の人間ラフカディオ・ヘルンの父となる少年の本質を、最も鮮明に示す示唆が詰まっている。細部への鋭い観察力、音・表情・色・匂いへの震えるような感受性、深い優しさへの激しい情熱、そして何よりも怪奇なもの、不思議なものへの芽生えたばかりの関心。後者がすでにいかに大きな位置を占めていたかは、彼の死後に発見された自伝的断片からうかがえる……。
[Elizabeth Bisland, The Life and Letters of Lafcadio Hearn, vol. 1 (Boston and New York: Houghton, Mifflin and Company, 1906), Chapter I. Project Gutenberg.]
(*筆者による日本語訳)
八雲の情熱的な愛を拒絶した点から見ると、ビスランドに対して「やな女性だなあ」という感覚が拭えないが、史実のビスランドはむしろもっと複雑で食えない人物……ともあれ、文学面では最大の理解者だったといってよい。なにしろ、彼女は八雲の死後すぐに、その業績を残さねばならないと決意し伝記と書簡集の編纂を始めている。これにあたって、ビスランドは数多くの書簡の収集に奔走し1906年には刊行にこぎつけている。
