「河・山岳・大地」が崇められていた

文字資料によって信仰が分析できるようになるのは、殷代後期が最初である。しかも、その200年あまりの期間にも、信仰の変化が見られる。

甲骨文字によれば、当初(紀元前13世紀後半)は、祖先を神格化した「祖先神」と、自然を神格化した「自然神」の両方が祭られていた。

祖先神としては、代々の殷王(先王)が祭祀対象に多く見られる。殷代にも、血縁組織としては氏族が基本的な単位であり、一般には仮想の共通祖先以外は三世代程度しか系譜が認識されない[落合2012]。しかし、王の場合には、建国者が樹立した王朝とその正統な支配権が代々にわたって継承されてきたことを祭祀によって示す必要があり、数百年分の系譜が祭祀対象になった。

ただし、系譜の一部には、続柄が組み替えられたり[落合2002]、あるいは存在しない王が追加されたり[島1958]した部分もあり、「事実ではない神話の共有」が王朝単位でおこなわれていた。

自然神としては、河(黄河の神格)・岳(山岳の神格)・土(大地の神格)が多く、そのほか日(太陽の神格)・雲(雲の神格)・竜(水神)・鳳凰(風神)など様々なものが見られる[落合2016]。自然神の多くは新石器時代以来の信仰だったと思われる。

祖先神への祭祀だけが残った理由

さらに、祖先神や自然神の上位には、「帝(上帝とも)」という主神(最高神)が設定されていた〔図表Bの(1)〕。それらへの祭祀や信仰を王が司ることで、「王のおかげで人々が神からの祐助を受けられる」という形になり、宗教的権威を構築したのである。

ただし、その後、帝への崇拝が急速に衰退する[赤塚1977]。同時に、短期間の過渡期(紀元前1200年ごろ)において自然神を「高祖(非常に遠い祖先)」として系譜に組み込む試みがされた〔図表Bの(2)〕。しかし、それも放棄され[落合2012]、甲骨文字の中後期(紀元前12〜前11世紀後半)には祖先神(特に先王)への祭祀だけが残った〔図表Bの(3)〕。

図表B:殷代の信仰の転換(制作=本島一宏)
図表B:殷代の信仰の転換(制作=本島一宏)

その理由について、史料上に具体的な記載はないが、王に直接的につながるのは先王であるから、それへの祭祀を中心にすることが、王の権威をより高めると考えられたのであろう。当時の「合理的判断」で信仰のあり方が変えられたのである。

初期の王朝では、政治的な主権者と祭祀の主宰者が一致する「祭政一致」が一般的であるが、殷王朝は祭祀対象を先王に限定しており、超越的な神聖性までも王が独占しようとしたことになる。

なお、甲骨文字に記された祭祀の方法にも変化があり、初期には祭祀における儀礼が多様で規則性がなかったが、その後、中後期には祭祀の種類が減少して定型化していく[落合2015]。この時代は、原始的な信仰から人為的に制度化された儀礼への移行が始まった時期と位置づけられる。