「焼き殺された家畜」は“ご褒美”でもあった

犠牲の殺し方も、現代の我々から見れば不必要な残酷さであるが、当時は、こうした形で犠牲を捧げることによって、神や祖先の祐助が得られると考えられていたので、現代の動物愛護の観念からは善悪を判断できない。しかも、殷王は自身が所有する家畜を使用して祭祀をおこない、神や祖先の祐助を求めたのであるから、殷代の人々にとっては王の「善行」にほかならない。

さらに殷代の祭祀には、それ以外にも政治的な意味があった。当時は家畜が貴重品であり、特に牛は少産で成長が遅く、また飼料が限られるため、「最高級品」であった。そのため、牛を祭祀で大量に使用することは、殷王の経済力を示すことにもなった[岡村2005]。

また、祭祀の犠牲になった家畜の肉は、埋めたり川に流したりするような儀礼でなければ肉が残ることになるので、参加者に分配されたはずである。つまり、貴重品の賜与(与えること)を通した君臣関係の確認の意味もあったと考えられる[落合2015]。

このように、家畜を祭祀の犠牲とすることは、主宰者である王にとって政治的な合理性が二重三重にある形で、きわめて効率的な行為であった。殷代の政治は、その祭祀の多さから「神権政治」と呼ばれるが、決して「王が神に頼った政治」ではなく、むしろ「王が神への信仰を利用した政治」だったのである。

「生贄になった3000体以上の遺骨」が見つかる

殷代の甲骨文字には、人牲(人間の犠牲)をもちいた祭祀も記されている。次に、その例を挙げた。

・己巳の日に問うた、王は次の乙亥の日(己巳の6日後)に、祭祀をして酒を酌む儀礼をおこない、祖乙(先王名)に15人の羌を伐(首を斬って殺す儀礼)しようか。(原文:己巳貞、王来乙亥、侑酌、伐于祖乙其十羌又五。『小屯南地甲骨』611)

・10人を伐するか。15人か。20人か。大吉。この通りにおこなわれた。30人か。(原文:伐十人。十人又五。廿人。/大吉。茲用。/卅人。『小屯南地甲骨』2343)

一例目では、祖乙という先王(祖先神)に15人の「羌」を犠牲として捧げることを占っている。羌とは、殷王朝の西北方面に居住していた人々であり、たびたび殷と戦争になっていた。そこからの捕虜を祭祀の犠牲として、「伐(首を斬って殺す儀礼)」の祭祀に供したのである。

二例目も「伐」の祭祀であり、犠牲にする人数を占っている。10〜30人の四択で、原文では「二十人」の脇に選択されたことを示す「大吉」と、実行されたことを示す「茲用」を付記している。

このように、殷代には人牲をもちいた祭祀も盛んにおこなわれた。実際に、殷代後期の首都であった殷墟遺跡からは、人牲の遺体が3000体以上も発見されている[黄1990]。図表Dに発掘例を挙げたが、首を斬られた遺体が狭い穴に8体も埋められている。首は別の場所から発見されており、「伐」の犠牲に供されたものと分かる。

発掘された人牲遺体
図表D:発掘された人牲遺体(出典=黄 1990、88ページ)

こうした人牲には、戦争捕虜のほかに奴隷が使用されたが、甲骨文字によれば奴隷も戦争捕虜を主な供給源としていたと推定される[落合2015]。