魔法の言葉「経過観察中」
本人が診断に納得できない場合、わたしは「意見の相違をいったん保留にする」という提案をすることがあります。
ある70代女性の例では、診断はアルツハイマー型認知症でしたが、本人はその診断に納得されませんでした。そこでわたしは、「わたしの診断も100%確実とは言えませんし、お母さんの意見も絶対に正しいとは限りません。ですから病名を決めず、今は経過観察中ということにしておきましょう」と提案しました。すると、本人は「それならいいわよ」と承諾してくださいました。
この「経過観察中」という言い方は、本人だけでなく周囲への説明としても役立つことがあります。
親が認知症になったとき、周囲にどこまで伝えるかは家族にとって悩ましい問題です。しかしわたしは、周囲の安心よりも、まず本人のプライバシーを優先すべきだと考えています。認知症になっても、「あの人には知られたくない」という感覚は変わらないからです。家族がよかれと思って、無断で親戚や近所に伝えることは、本人を深く傷つけてしまう恐れがあります。
本人が病名を受け入れていない段階では、周囲には「検査はしたけれど、まだはっきりしないので様子を見ている」と伝えるのが、本人の自尊心を守る方法になることもあります。
診断はゴールではなく、新しい暮らしのスタート
意外に思われるかもしれませんが、認知症と診断されることで、診断前より症状が落ち着いたり、状況が好転したりする人もいます。原因の分からない不安の正体がはっきりし、覚悟ができることで前に進めるようになるからです。
しかしここで注意したいのは、家族の関わり方です。服薬が決まるまでは熱心だった家族が、治療が始まると安心して関わりを減らしてしまうことがあります。すると本人は「病名さえつけば、もう自分には関心がないのか」と疎外感を抱き、意欲を失ってしまうことがあります。
家族が感じる「診断がついた達成感」と、本人が抱く「病人にされた喪失感」は、往々にして食い違います。だからこそ大切なのは、診断を確定させることよりも、これからどう向き合っていくかです。診察の場でも「これで終わり」ではなく、「ここから一緒に考えていこう」というメッセージを伝えることが重要です。
薬や診断がゴールではありません。その先も、家族としての関係は続いていきます。焦って「診断」という印鑑を押しに行くより、まずは本人の揺れ動く不安を受け止めること。その安心感こそが、認知症と共に歩むための土台となるはずです。



