東京へ引っ越す前にも松江へ
戸籍手続きを終えた2月の下旬、家族で伊勢へ旅行し、帰路大阪に1週間ほど滞在したが、4月初めには帝国大学(翌年から「東京帝国大学」)への奉職が確定する。9月の上京・移住の前に、ハーンとセツはトミ(セツの養母)と一雄を伴い、2カ月の予定で出雲に帰省した。神戸では、中山手通り7丁目の家(神戸第3の住居)に、金十郎(セツの養父)がお米・お梅の2人の女中とともに留守を守る。
6月30日の松江到着以来、宿泊先の旅館にセツの縁者やハーンの元同僚たちが、引きも切らず来訪した。その中でチエ(セツの実母)は「気品の高い容姿のお祖母様で……どことなく冷たい感じのする(人で)」、そのか細い声を嫌った一雄は失礼な態度をとって、パパから生まれて初めてのスパンク(尻の平手打ち)を食らう。
セツの養祖父は78歳で没した
万右衛門は熊本時代に、「稲垣一雄は万万歳」の文句を入れた自作の子守歌で、一雄を負って回ってもいたから、一家の来訪を大いに喜んだであろう。その後も松江に留まった彼は、その1年半後に――内中原の家でと思われるが――78歳をもって没している。
西田千太郎が誰よりも熱心に旅館を訪ね、また宴席をハーンと共にしたのは当然で、セツも改めて挨拶と御礼に西田宅を訪問している。セツが親族以外で最も信頼してきたこの西田は、再会からわずか8カ月後(1897年3月15日)に、両親に妻、それに11歳の長女を頭に下はまだ2歳の3男まで、4人の子供を遺し、34歳の若さで胸の病に屈し、地上で最も信頼した友を失ったハーンを、「悲嘆と落胆のドン底に陷れた」。

