「正直、もう厳しいです」

ある日の夕方。会議室の扉を閉め、Aさんは上司にこう切り出します。少し間を置いてから。「……正直、もう厳しいです」

声は荒れていません。怒りもない。ただ、疲労がにじんでいました。売り上げは落ちていない。今期も目標達成はほぼ確実。それでも案件が重なり、トラブルが続き、深夜のメール返信が日常になり、休日も頭のどこかで仕事を考えている。朝、会社に向かう足取りが、少しずつ重くなっていました。その状況で、日ごろ弱音を吐かない彼が絞り出した一言です。

その一言に上司が返した言葉は、こうでした。

「今が頑張りどころだから、もう少し頑張って!」
「A君を頼りにしてるからさ」
「みんな大変なんだから」

責められたわけではありません。むしろ励ましの前向きな言葉でした。ただ、Aさんが絞り出した一言は、受け止められなかった。そして翌日も、Aさんのカレンダーは会議で埋まったまま。担当は変わらず、優先順位も変わらない。

その瞬間、彼の中で何かが静かに折れました。業務量が問題だったのではありません。忙しさそのものが理由でもない。彼が悟ったのは、「この会社は、何も変える気がない」ということでした。

もし自分が倒れても、次の“誰か”が同じ役割を背負うだけだ。問題は人の頑張りで処理され続ける。仕組みは変わらない。そう理解した瞬間、努力を続ける意味が、音もなく崩れていきました。退職届は、その数週間後に出されました。

なぜ退職ドミノが起きるのか

こうした退職は、単発では終わりません。Aさんのような精神的な支柱であり、“調整役”がいなくなった瞬間、それまで均衡を保っていた組織のバランスが、静かに崩れ始めます。

まず起きるのは、業務の偏りの露呈です。これまでAさんが無言で吸収していた仕事が、突然、宙に浮きます。誰が引き取るのか。誰が最終判断をするのか。誰がトラブルの矢面に立つのか。

それまで「何とか回っていた」業務が、急に滞る。進捗が遅れ、判断が止まり、顧客対応に綻びが出る。そこで初めて、周囲は気づきます。

「あれ? Aさんの次に追いつめられるのは、自分じゃないのか?」

次に起きるのは、不満の顕在化です。

「正直、前からおかしかったよね」
「なんで、特定の人にばかり仕事が集中してたんだろう」
「上司は何をしていたの?」

これまで“空気”として存在していた違和感が、言葉になります。そして最後に露出するのが、誰も真正面から向き合ってこなかった“構造の歪み”です。

・業務が属人化していたこと
・負担が見えないまま積み上がっていたこと
・問題を「人の頑張り」で処理し続けていたこと

つまり、問題はAさんの退職によって発生したのではありません。もともと存在していたものが、隠せなくなっただけです。その結果、一人、また一人と連鎖退職、いわゆる「ドミノ退職」が引き起るのです。

ドミノ倒し
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