女中は「家族の一員」だったか

さて、八雲が6時に起床ということは、トミや女中たちの朝は、少なくとも1時間前、午前5時には始まっていたということだ。朝食は八雲だけが7時に。トーストと卵程度の軽いもの。車夫が迎えに来て、7時半には出勤。

特に注目すべきは、稼ぎ頭である八雲を最優先していたことだ。毎日の食事は、八雲が最初に食べて、家族はその後とある。だから、女中たちはさらに後だったと思われる。

だが、完全に上下関係で割り切っていたわけではない。夜、新聞が来ない日は、女中も一緒にゲームで遊ぶという記述もある。

現代人には想像しにくいが、当時の家事労働は文字通り「重労働」だった。洗濯は手洗い、アイロンは炭火式、水汲みは井戸から、調理は薪や炭で火を起こすところから。掃除一つとっても、今のように掃除機があるわけではない。一日中、朝から晩まで体を動かし続ける仕事である。

八雲のような知識人が執筆活動に専念するには、こうした家事労働から完全に解放される必要があった。だからこそ女中を雇う。それは単なる「使用人」ではなく、一家の生活を支える不可欠な存在だったのだ。

毎日、朝5時から一緒に働き、同じ屋根の下で暮らし、時には夜の団欒にも加わる。実質的には「家族の一員」として受け入れていたと考えるのが自然だろう。

トミを激怒させた女中「よね」

トミが女中たちに的確に指示を出しながらも、夜にはゲームの輪に入れる。この距離感こそ、明治の中流家庭における主従関係のリアルだったのではないか。

ところが、である。

八雲家に仕えた女中は何人かいたが、中には、この「家族的な距離感」では到底収まらない、とんでもない女中がいた。

そもそも、女中を仕切っていたトミは非常にできた人で、めったに人の悪口もいわなかった。小泉家に仕えた多くの女中も、ほかと比べて働きやすい雇い主だと思っていたのではなかろうか(もっとも八雲はすぐ不機嫌になるし、セツはヒステリックになることもあるが)。

そんなトミをただ一人激怒させたのが、松江で雇い、熊本までついてきた「よね」という女中である。八雲の長男・小泉一雄は、こう書き記している。

奉公に来た最初の日だからとて祝福の意味で彼女に切り身の煮魚の最大なのをさらにつけてあたえられた。然るにその後よねに煮魚をさせたら、彼女は自分の皿へ一番大きい切り身をつけた。この時は黙っていたが、三度目に又もこれをやった時、遂に祖母は「えいっここなええ気なセゴハゲ奴が!」と大喝されたとのことだ。
小泉八雲の息子の一雄(17歳ごろ)
小泉八雲の息子の一雄(17歳ごろ)(写真=Lafcadio Hearn, by Nina H. Kennard/PD US/Wikimedia Commons

「セゴハゲ」とは現代の島根県では宍道湖で獲れるシジミの中で背中の黒い革が擦れて白くなっているもののことを指す。一雄によれば、これが当時の松江では狡い行商人を罵る時に使われていたという。ようは、姑息に自分が大きいのを食べようとするよねに対して「この野郎、調子に乗って本性を現したな」と激怒したということだろう。