最終章:「煉獄(Purgatorio)」を越えて

――孫子が描かなかった「信頼の国家(クオリティ・ステート)」への登攀

中国の勝利は、なぜ永続しないのか。日本はどこに立つべきなのか。

第5章までで見てきた通り、中国の戦略は、孫子『兵法』の完成形にきわめて近い。戦わず、占領せず、勝てる形を先に作り、弱点に浸透し、先を取り、逃げ場を消し、データによって先知する。戦争は起きず、反発も最小化され、結果だけが静かに確定する。孫子が描いた「最も美しい勝利」が、21世紀のテクノロジーとインフラを通じて、現実の国家戦略として実装されている。

中国軍の兵士
写真=iStock.com/TR Cameraman
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では、なぜ孫子自身は、この先を描かなかったのか。

答えは明確だ。孫子の兵法は、「どう勝つか」を極限まで突き詰めた書であって、「勝った後、どのような秩序を維持するか」を扱う書ではないからである。兵法は統治論ではない。戦争を起こさずに勝つことはできても、その勝利がどこまで続くかは、兵法の射程外にある。

ここに、中国戦略の最大の強さと、同時に最大の脆弱性がある。

中国の社会OS・資源OS・データOSによる支配は、短期から中期にかけて極めて安定的に機能する。生活は便利になり、経済は回り、治安も維持される。だが、この安定は一つの前提の上に成り立っている。それは、人々が自分たちの生活が設計され、選択肢が管理されていることを明確に自覚しないという前提だ。

しかし、現代社会において、その前提が永続することはない。情報は必ず可視化され、比較され、語られる。なぜこの国では別の技術が使えないのか、なぜこの選択肢が最初から存在しないのか、なぜ政治的発言に無意識の抑制が働くのか。こうした問いが共有された瞬間、これまで「便利さ」として受け入れられていた構造は、意味の問題へと転化する。

歴史が示す通り、帝国主義が長続きしない理由は、軍事力の不足ではない。外からの恐怖による支配が、時間差で必ずナショナリズムを刺激するからだ。これは中国に限った話ではない。どれほど洗練された支配であっても、完全に管理された生活は、やがて「選べないこと」への不満を内包する。孫子が描かなかったのは、まさにこの段階である。

さらに、中国型の完全制御は、別の逆説も抱える。先知によってすべてを予測し、最適化しようとするほど、社会は硬直する。予測可能性が高まることは、同時に、逸脱や創発の余地が狭まることを意味する。短期的には安定だが、ひとたび想定外の衝撃が加わると、システム全体が急速に不安定化する。この脆さもまた、孫子の兵法が扱わなかった領域に属する。