豊臣兄弟の関係性に不穏な空気が…
河内将芳氏(『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』)によると、秀吉は京都に大仏をつくろうと考え、秀長の領国紀伊から木材を集めていたが、このとき木奉行をしていたのが、秀長の家臣・吉川平介であった。
ところが、「天正十六年十二月にその平助が『熊野山の木』『二万本』を切り、大坂にて売り払ったさい、『過分に』『代金』をうけとったかどで秀吉の命で『召し捕』らわれ」(前掲書)処刑されたのだ。
これにより「秀長も『天下の面目』を失ったと評されることにな」(前掲書)り、しかもこの件で天正17年になっても「秀長が秀吉に『御見参』(対面)できなかった」というのだ。
これまで一度も、秀長の面会を秀吉が拒否したという記録はない。しかも、平介の犯罪行為を見ても、そこまで秀吉は怒ることだったのだろうか。なにか秀吉が秀長を牽制しているようにも思える。
「我が子に政権を譲りたい」欲が見え隠れ
養子の秀勝も、秀吉との間でいざこざを起こしている。秀勝は、秀吉に対して領地(二十八万石)が少ないことを訴えたという。このため怒った秀吉から勘当され、居城亀山城も奪われ、四万石程度に減らされて大垣城へ移されている。
この事件は、鶴松誕生後のことなので、体よく養子の秀勝を貶め、後継者から外そうとする秀吉の魂胆に見えなくもない。
いずれにせよ、鶴松の誕生により、我が子に政権を譲りたいと熱望し始めた秀吉は、親族に対してそれまでの扱いを変えていったように思われる。
(初公開日:2026年1月4日)


