淀殿が「悪女」「淫婦」と語り継がれた理由

ねねと淀殿はよく仲が悪かったというが、それを示す史料は存在しない。

秀吉の死後、ねねは大坂城を引き払って京都に移り、淀殿が秀頼とともに大坂城本丸に座した。以後、ねねは京都で秀吉を祀まつった豊国神社に頻繁に参詣し、慶長8年(1603)には出家し、2年後には秀吉の冥福のため高台寺を創建し、その門前に住んで慰霊につとめた。

小和田哲男氏は「秀吉の死後の『後家』の役割の一つ、亡き夫の菩提ぼだいを弔う北政所としては、大坂や伏見より豊国社に近い京都に居を定めるのは当然のなりゆきだったといってよい。ちなみに、『後家役割』のもう一つは、大坂城に残った淀殿が分担することになる。ふつうの場合、この『後家役割』は二つとも一人の女性が担うわけであるが、秀吉の場合はちょうど二人の正室が分担する形になったのである」(『北政所と淀殿 豊臣家を守ろうとした妻たち』吉川弘文館)と論じる。

また先の福田氏は、淀殿悪女伝説が生まれた所以は、この淀殿=側室説にあるとする。

江戸時代以降、側室を妾と考えいやしむ風潮があり、さらに江戸中期に淀殿「淫婦」説も加わったとする。それは「豊臣氏は徳川氏によって亡ぼされたのではなく、『淀殿』の不義により内部から崩壊していったのだ」と理由づけ、「徳川氏による天下支配を正当化しようとする見方が」(『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房)あったのだとする。

秀長は「後継者」の最有力候補だった

突然、鶴松という秀吉の息子が誕生したことで、当然、秀吉の後継者問題、ひいては豊臣政権のあり方に大きな変更が生じた。

すでに秀吉も50代前半、この年代であれば家督を譲って後見に回る大名も少なくなかったし、後嗣こうしを定めている大名が多かった。けれど秀吉は、跡継ぎを明言していなかった。

ただ、秀吉が逝去した場合、後継者の最有力候補は豊臣秀長であったろう。秀吉の唯一の弟であり、「名代」や「取次」として軍事・外交分野で顕著な功績を残し、長年天下平定事業を支えてきたからだ。