子供に恵まれなかった正室ねねの心境

淀殿は天正17年5月27日に無事、男児を出産する。よほど嬉しかったのか、秀吉は出産の前祝いとして諸大名に黄金6千枚、銀2万5千枚を大盤振る舞いしている。捨て子はよく育つという迷信から、男児には「すて」という名がつけられた。後の鶴松である。

8月末に鶴松は淀殿とともに淀城から大坂城へ移った。鶴松は輿こしに乗って移動したが、彼に従う行列は華美で、多くの人びとが見物のために殺到した。鶴松の傅役もりやくには秀吉の親族・浅野長政(ねねの義兄)が任じられた。結果、大坂城の奥御殿(妻子の居る場所)が手狭になるので、秀吉はねねと母のなか(大政所)を聚楽第にうつしている。

豊臣棄丸像
豊臣棄丸像(写真=妙心寺/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉の正室は「ねね」(ねい北政所きたのまんどころ)。糟糠そうこうの妻として知られているが、秀吉との間に実子はできなかった。そういった意味では鶴松の誕生により、淀殿の立場は急激に上昇していった。

これについてねね自身がどう思ったかわからないが、「奥御殿にいて寧や大政所に仕えていた女性たちの既得権を損ねるような問題」(福田千鶴著『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房)があり、「不平・不満をいうものがおり、それが秀吉の耳に入って機嫌を損ね」、奥女中たち数名を首にしようとしたが、「寧に免じて許す」(前掲書)ことにしたという。

平安時代の最高権力者には正室が2人いた

福田千鶴氏は、鶴松に続いて淀殿は秀頼を産むが、それによって側室から正室にのぼったと考える。

福田氏は「武家社会において貴人の妻を一人とし、それ以外の女性を側室=妾とする考え方は、江戸時代になってから」のことだとし、「御堂関白こと藤原道長の場合には、倫子りんし明子めいしという二人の北の方(正妻)が」いたと摂関家の例をあげ、「秀吉は武家関白として最高の地位にあり、実質的には天皇を超越する権力と権威を掌握し、しかも死後は豊国大明神としての神格化(王権化)をはかった天下人である。その妻が寧一人でなければならない理由はない」とし、さらに「茶々が生存中の史料を一覧すると、彼女を秀吉の側室=愛妾とするものはまったく確認できない」(前掲書)と述べており、淀殿はねねと並んで秀吉の正室だったと主張する。