「父親は秀吉ではない」落書きに大激怒

天正17年(1589)2月25日、京都の聚楽第(秀吉の邸宅)の表門に貼り付けられた落書きが見つかった。

ちょうど淀殿が秀吉の最初の子を妊娠した時期だ。落書きの内容ははっきりしないが、数種の歌が書き付けられていたようで、その内容は「淀殿の子の父親は秀吉ではない。多くの側室がいながらずっと子供に恵まれなかった秀吉に、急に子ができるなんて怪しい」といった類いのものだったようだ。

奈良県立美術館収蔵『傳 淀殿畫像』
奈良県立美術館収蔵『傳 淀殿畫像』(写真=奈良県立美術館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

すると、この落書きに怒った秀吉は、事件の4日後、聚楽第の門番をしていた17人の武士の鼻と耳をそぎ落とした上で逆さはりつけにしたのだ。全員拷問するつもりだったが、正妻・ねねの願いによって7人は拷問を免れたという。

子供から老人まで100人以上を殺害・処刑

同時に秀吉は、犯人逮捕を厳命した。

やがて犯人の牢人たちは大坂天満の本願寺に逃げ込んだことが判明。そこで秀吉は本願寺の住職(門跡)・顕如けんにょに牢人たちを引き渡すように命じ、自分自身も大坂へ乗り込んで行った。さらに秀吉の重臣・石田三成と増田長盛が本願寺に対し、即座の犯人引き渡しを求めた。仕方なく顕如は、関係者の尾藤道休を殺し、その首を差し出した。

それでも怒りが収まらない秀吉は、道休をかばった僧侶を含めた数人を捕まえて殺害。さらに道休が住んでいた家を町ごと焼き払い、町の人びとを連行して60人以上を六条河原で処刑したのである。その中には80歳を超える老人も7歳に満たない子供もいた。

その後も逮捕者が続き、あわせて103人がこの事件で殺された。たかが落書きなのに完全に常軌を逸している。愛憎という個人的な感情のために権力を振りかざす、まさに狂気の沙汰といえよう。

ともあれ、秀吉は淀殿の妊娠を喜び、彼女が無事出産できるようよど城を築いている。人びとの好奇の目から守り、安心できる場を確保してやったのだ。彼女を淀殿と呼ぶようになったのは、この淀城から来ているのだが、研究者の福田千鶴氏は「彼女を『淀殿』と呼ぶ史料は一点も確認できない」(『淀殿 われ太閤の妻となりて』ミネルヴァ書房)という。

同氏によれば、浅井氏、茶々、淀、大坂、御台みだい御上おかみ、お袋、母堂ぼどうなどさまざまに呼ばれていたそうだ。