甥・秀次や養子の秀勝には荷が重い

続く候補といえば、長久手の戦いで失態を犯したが、その後は順調に手柄をあげ続けた甥の秀次だ。さらに、養子の於次おつぎ秀勝(信長の五男)が没したあと、2年前に秀吉の養子となった秀次の弟(秀勝)もいる。

ただ、秀勝については養子ではないという説もあるし、秀次と秀勝は20歳そこそこ。まだ若く、秀吉の後継者としては荷が重すぎる。そういった意味では、秀長が適任だった。

豊臣秀長像
豊臣秀長像(写真=奈良県大和郡山市春岳院/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

九州平定以後も、秀長は外交分野で大きな働きをしてきた。

たとえば、毛利輝元の接待である。聚楽第行幸から3カ月後、中国の雄・毛利輝元が初めて一族の小早川隆景や吉川広家に伴われて上洛してきた。天正16年(1588)7月のことだ。

大坂に来た輝元の接待役を担ったのは、やはり秀長だった。彼は自分の宿所に輝元を招いたが、その場には秀吉も現れ、さらに織田信雄や徳川家康、そして一族の秀次や秀家も顔を出して懇談したという。

9月には輝元に加え、小早川隆景と吉川広家ら毛利一族を大和郡山に招いている。

秀長のおもてなしに毛利一族は大満足

詳しいことは『輝元公上洛日記』に記されているが、河内将芳著『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(戎光祥出版)を参考に、その概略を紹介しよう。

秀長は、毛利一族を4日間国元で接待した。まずは屋敷に招いて室内で能をおこない、茶会を開いた。続いて、彼らの奈良見物に同行し、東大寺の大仏や興福寺、若草山、猿沢の池などを一緒に見物したあと、池のほとりの寺院で、三人だけでなく、その家臣全員に料理と酒をふるまったのだ。

さらにその夜にも夜物語をしようと、輝元らを秀長の屋敷に呼び寄せ、そこでお囃子はやしを聞きながら食事を楽しんだ。『輝元公上洛日記』は筆に記しがたい接待だったと書いており、輝元が大いに満足したのは間違いないだろう。

さて、話を戻そう。

淀殿の妊娠が発覚すると、秀吉と秀長、さらには血族大名との間がギクシャクしてくる。