「右派市民」は少数者ではない
本書では先に、右派市民は多いのか少ないのか、といった問いかけをしました。調査からすると、右派を煮詰めたような人はほとんどいません。せいぜい1~2%といったところです。
しかし、どこか一部だけ当てはまるような人はそれなりに多いのです。約2割の人がこうした極端にも思える意見を部分的には持っているのです。
この結果を受けて読者のみなさんに考えていただきたいのは、こうした約2割の右派市民とそうでない人々とはどうあるべきなのか、ということです。
本書の「はじめに」で引用した言葉をおぼえているでしょうか。「(この意見の対立は)共に歩むためにあるのか、同じ屋根の下の別々の部屋にすみ分けるためにあるのか。あるいはもう、私たちは一緒に居たくないのか。(*1)」
もし右派市民がごくごく少数の人たちであれば、「無視」したり「回避」したりも可能でしょう。倫理的にはどうであれ、「排除」もできるかもしれません。しかし、それが可能なほどには右派市民は少数者ではないのです。何らかの形でともに歩むことを考えざるをえないのではないでしょうか。
右派市民と左派市民の共生課題
しかし、私は「対話」が成り立つ可能性は意外と大きいのではないか、とも思うのです。海外、とくにアメリカ政治における分断の状況をみたり、ネット上の激しいいがみ合いなどを目にしたりすると、冷静に話し合うことなどとても無理だろうと考え、その感覚を一般化してしまいがちです。
しかし、一般市民を対象にした世論調査からは、ほとんどの人はそれほど強情でも極端でもないのではないか、ということがみえてきます。
もちろん、ある部分で極端な物言いはあるでしょう。「韓国とは絶縁したほうがいいんだ」とか、「同性愛なんか認めるから社会のモラルがめちゃめちゃになるんだ」といったことを口走る人は、少ないながらも身のまわりにいるかもしれません。でも、そうした人であっても、それ以外の部分では思いのほか話が通じたりすることもあります。
だからといって、差別的な発言や極端な物言いを見過ごすのか、と思う人もいるでしょう。
とくに右派市民の対極にいる左派市民ほどそうではないかと思います。左派市民はえてして、前回述べた右派市民の4つのタイプのうちどれか1つにでも当てはまった人たちを「話が通じない人」「ダメな人」として全否定してしまいがちです。1つでも「汚点」がある人とは対話を拒否してしまうようなところがないでしょうか。そうした「拒否」が、右派市民にかえって頑なな態度を取らせてしまうようなところがあるようにも思えます。
*1 「(社会季評)靖国で考えた、私たちは一緒に居たいのか ヒリヒリの奥に、種火はあるか 東畑開人」朝日新聞、2024年9月19日


