遺体さえ処理できれば仏壇も墓もいらないという風潮

散骨を提唱する「葬送の自由をすすめる会」が、1991年に設立された。宗教学者の島田裕巳はさらに進めて、遺骨を引き取らず火葬場に処理を任せる「0(ゼロ)葬」を推奨している。

島田によれば都会の家は、跡継ぎがない、相続税が支払えないなどの理由で、解体されることが多いという。であれば、いずれ処分される仏壇、遺影、位牌は必要ないものだし、その結果、訪れる人もいなくなった墓は無縁化し、無縁墓となるのだから、仏壇も墓もムダだという。そのうえでこう書く。

遺体を処理すればそれでいい。そんな時代が訪れている。
それは自由だということでもある。
自由であるということは、拘束がないということであり、同時に寄る辺がないということである(『0葬 あっさり死ぬ』集英社文庫)

骨なし、墓なしがもたらす「時代の歪み」

無縁社会が進行し、慣習やしがらみから脱却した「個人化」によって自由を得た代償として、孤独死や無縁仏が増加し社会問題となった。こうした問題に直面し、一部では故人の尊厳を守る形で弔うために、行政や宗教法人がセーフティーネットを整備する動きも広がっている。

最終章で「人は死ねばゴミになる」と書いた島田は、ゴミになる覚悟を決めたのであり、ゴミにふさわしい死に方、弔われ方、死後の処理のされ方を考察する。以下がその結論だ。

0葬に移行することで、私たちは墓の重荷から完全に解放される。墓を造る必要も墓を守っていく必要もなくなるからだ(『0葬 あっさり死ぬ』集英社文庫)
伊藤博敏『火葬秘史 骨になるまで』(小学館)
伊藤博敏『火葬秘史 骨になるまで』(小学館)

実際1990年代以降は、葬儀の見直しが起こり、特に2000年代以降のネット化の進展によって「葬儀価格の見える化」が始まり、お布施や戒名料などの再検討もあって葬儀の簡素・簡略化が進んだ。通夜なしの一日葬が人を呼ばない家族葬とともに一般化し、炉前に遺族が集まりただ焼くだけの直葬も増加した。

そうしたここ30年近い薄葬の流れをコロナ禍が後押しした。「拾骨に立ち会わない火葬」は、コロナ禍が長引けば、それが一般化する可能性も秘めていた。拾骨の慣習は戻ったが、「立ち会わなくてもいい」「遺骨は諸外国のように粉末でもらってもいい」という意識は、水面下で広がっている。

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