待遇が“上”の本庄、昇給ペースの速い西田

本庄は西田と入学以来の旧友で、しかも同じ雑賀町生まれである。本庄のほうは退学することなく1882年に中学校を卒業し、彼もまたそのまま授業補助として雇われている。

ここで興味深いのが、卒業したほうが有利だったのか、という問題だ。

『松江北高等学校百年史』によれば、西田は月俸3円の授業手伝として採用され、その後1881年に中学校教諭補助(月俸6円)、1883年に8円、1884年には10円まで昇給している。対する本庄は、1882年に月俸5円の授業補助として雇われた。

スタート地点では本庄のほうが2円高い。中学卒業の肩書があるぶん、待遇も上だったのだろう。だが西田の昇給ペースは速い。1881年に6円になった時点で、翌年卒業する本庄を追い抜いている。もしこのまま松江に留まっていたら、2人の給料差はどんどん開いていたかもしれない。

普通に考えれば、本庄としては面白くないはずだ。「くっそ、あいつ中退なのに俺より給料高いのか……」と関係がギクシャクしてもおかしくない。

筆者が見つけた「雑賀」の案内板
筆者撮影
筆者が見つけた「雑賀」の案内板

2人とも公費で東京へ送り出されたエリート

だが、2人の関係が悪化した形跡はない。なぜか。

おそらく2人とも、もっと大きな問題を共有していたからだろう。このままでは「先生、先生」と呼ばれてはいるが、所詮は「なんちゃって教員」でしかない。正規の免許もなく、いつまで雇ってもらえるかも分からない不安定な立場だ。「どがにかせんといけん!」2人の危機感は一致していたはずだ。

ここで、島根県では最高ランクの秀才という肩書は大いに効果を発揮する。記録がきちんと残っている西田のほうを追っていくと、既に同級生や後輩が上京して進学したのをみて周囲が進めたことで上京を決断したとある。こう聞くと「ボロは着てても心は錦……」といった風に貧しさに負けずに学問に励む姿が想像される。ところが『松江北高等学校百年史』には、こう記されている。

18年7月に退職、県から学資15円の補助を得て、当時浜田の第二中学に勤めていた本庄太一郎と共に、8月上京する。
(本庄は)上京中の状況はよくわからないが、西田とほぼ同様であったと察しせらる。

つまり、県が2人の上京費用を出しているのだ。貧乏苦学生どころか、島根県が「この2人は投資する価値がある」と判断して公費で送り出したエリートである。しかも本庄も「ほぼ同様」ということは、彼も同じように補助を受けていたということだ。

さらに、この時に西田のほうは既に結婚、娘まで生まれている。おそらくは西田のほうが「このまま松江で授業手伝のままじゃ、娘に胸張れんけえ。よーし、パパ勉強して偉くなるぞ〜」とやる気だったのだろう。